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両手を超えた環の中で

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最近見かけるようになった、Fair Tradeの文字。今まで見た中では、砂糖・コーヒー・コットン製品などに付加されていた。

店頭に並んでくれることで、私のような末端消費者が選択できるようになる。賛同するのであれば、そういう製品を買うという行為でもって表現できる。
手に取る時、そこに至るまでの数々の苦労を思う。

* * * * *

【読書】
両手を超えた環の中で_b0059565_14515485.jpg養老孟司著「いちばん大事なこと」を読む。養老先生の環境論。
「本業は虫取り」と自認する先生が、だからこそ肌で感じとれる環境の変化と憂慮を基に、先生流の環境論を展開する。



養老先生の本は大好きで、何冊か読んでいる。その著作全てを通して一貫した論理が好ましいと常に思う。
脳は意識の世界であり、都市の世界である。対して身体は自然であり、生態系である。一貫しているというのは、この「意識対身体、都市対自然」という論理である。これを理解できれば、難解と言われる先生の語られることは、するすると紐が解けるように手元に落ちてくる。賛成か反対かを述べるのはその後だ。

「ああすれば、こうなる」型の思考。これが先生の唱えるところの脳化社会の基本思想だ。
問題が起こって解決に向けて努力した。結果、状況が好転した。これはありがたくわかりやすく、励みを得られる道筋だ。
ところが自然を相手にすれば、こんなに上手くいくことばかりではない。ガーデニングから子育てに至るまで、マニュアル通りにいけば御の字だ。そもそも自分以外の存在を思い通りにしようとすること自体が無茶なのだ、と誰もがどこかで認識しているにも関わらず、思うようにいかないことに焦れてしまう。ではどうすればいいか。

そういうものだと受け入れる強さと辛抱、と先生は説く。個人的に、謙虚と畏敬の念も加えたい。月や火星まで行けるようになっても、虫一匹を作り出すことはできない。そんな人間の持つ力というものを考えれば、自ずと見えてくるものがあるだろう。
だから一朝一夕で効果を期待してはいけない。それが環境問題を論ずる時の、一番の壁であろうと思う。先生が「環境問題は最大の政治問題」と言われる所以はそこにある。在任中に効果を出さなければならない政治の世界で、環境はあまりに枠を超えたテーマであるが、同時に実際は政治の動きで流れが決まるのがジレンマだ。核実験強行ニュースなど、胸が痛いことばかりである。

人それぞれ、国それぞれの違う土台で、「ああすれば、こうなる」式に考える。一致させるのは非常に困難だ。
自然を受け入れる強さとは、そのまま他者を受け入れる柔軟さと謙虚さに繋がると思う。相手をコントロールしようとするのではなく、相手とどう向き合うかを考える。それには自身を見つめる強さも、健全な想像力も必要だろう。

四季折々の情緒に触れ、世界有数の天災被験国である日本に、昔から息づくものが、「手入れ」という概念だと先生は提示する。
自然を優先するのではなく、人間の生活を至上とするのでもない、自然と人間が互いに共存していく為の関わり合い方。相手を認め、相手を知ろうとする気持ちがなければ始まらない。野菜一つ育てることをとってみても、「コントロール」と「手入れ」の違いは明白であり、問題はそこに立つ人間の線引きだ。
自然という巨大なシステムを、細胞一つ生み出すことすらままならない人間が、「コントロール」しようと試みればどうなるか。同時に、何が何でも手付かずで守ろうとする「原理主義」に、依って立つことが正しいと考えるか。

オーガニック、LOHAS、フェア・トレード、エコライフ。名前はどうあれその選択は、自身がどう生活するかの主張と社会への要望の表れである。
本書で紹介されている、英国の自然活動家であるメリアム・ロスチャイルドさんの言葉が素晴しい。
「自然史とは、大学の教壇で教える科目ではない。それは人間の生き方(A way of life)です」
環境とどう生きるか。自然とどう向き合うか。それは傍から見れば、その人自身の生き方を語ることになるのだろう。
by senrufan | 2006-10-08 14:50


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