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過敏症ゆえに背負うもの

昨日は母の日。
昨晩と今朝に渡って、数人の友人から「いたわってもらってる?」「お姫様扱いしてくれたでしょ?」などという温かいメールをもらいました。

何一つ変わらない日曜でした。
料理も掃除も洗濯も、全部自分でやりました。


うさぎはね、寂しいと死んじゃうんだよ、と呟いてみる。
呟いた後ですかさず、だーれがうさぎだっつーのうげええキモチワリー!とツッコんでしまう己のキャラに、実は全ての原因があるのではなかろうか。

* * * * *

【読書】
過敏症ゆえに背負うもの_b0059565_16201860.jpg中村うさぎ著「私という病」を読む。友人から借りた本。

中村うさぎさんといえば、買い物依存症の日々をつづった「ショッピングの女王」の連載等で有名になられて、私も雑誌で数度読んだことがある。本当は大変深刻な苦労だったと想像するのに、明るく書いていらっしゃるところに好感が持てた。
そんなうさぎさんが突如風俗で働くことを決意され、選んだものはデリヘル嬢。1週間の体験談と周囲の反応、彼女自身の自己分析などで出来上がったのが、この一冊だ。
まずこのデリヘルという言葉の意味がわからずググってしまった私って、実はとっても純粋培養な(ただの無知)

世の中には”恋愛体質”である人がいる。私の親友がそうだったりする。最近良く会ってる人もそうだったりする。なんでそのDNAの欠片もない私と繋がってくれたのか、いやはや縁とは不思議なもんである。
彼女達を見ていると、人間として素敵である上に、自分の中の”女”の部分を外に露出させる度合いと、自身がその”女”を意識する度合いが、実にいいバランスなんだね。だから人から女であるということで見下されることなく、惹きつけちゃう側にまわれるんだと思うんだ。

デリヘル嬢となって、芸名はかの有名な化膿姉妹(仮名)から借りて、男性にご奉仕体験したうさぎさん。その動機は、「女として取り扱われることで、自分の価値を確認したかった」ことであるという。
その根源には数々のセクハラ体験や離婚で負った傷、ホストから受けた侮辱など、根深い男性不信があり、そういった男性に貶められた自分を取り戻したいという欲求が募ったと分析されている。
面白おかしく書かれたデリヘル体験の章と比較して、この辺りの自己分析と世間批判は、ぐいぐいと自分の傷を開いて、相手の目をしっかりと見ながら詰め寄るような勢いがある。その論理に賛成するかどうかは別にして、自身の汚い部分から顔を背けることなく、むしろ細部まで抉らんばかりに晒しながら問いかけようとするその姿勢に、素直に感服せずにはいられない。
自分で体験したことだからこそ持てる説得力、というものを、この本で一つ目にすることができるのだ。

私は自分の”女”を意識したことはほとんどない。恋愛DNA皆無であり、男か女かじゃなく、人間としてどうかという目でしか人を見れず、ラブレターをもらったのは女の子からばかりだった。どーでもいい。
それは「初の女性の」という枕詞がつく仕事についても変わることがなかったのは、自分という人間の属性の一部としてしか”女”を感じたことがないからだ。
そんな私が、否応なく「女である」ことを意識させられた時は、思い返せばほとんど男性側からの何らかのアクションによってであったと思う。それは痴漢という行為であったり、「女性なんだから」という言葉を挟んでは私を制限しようとする、上司からの言葉であったり。
例え自分自身がどう感じていようとも、世間には私を”女”というレンズを通して捉えようとする人達は多いのであり。「人は女に生まれない。女になるのだ」とのボーヴォワールの言葉を思い出す。

そのように、世間一般が女性の中に見る「女」。それを過剰に意識し拡大させてしまうと、それは「病」に分類されるものになる。
「私」という一個の人間を、外側から構成する様々な役割。それぞれが保証されることで、安定した自己が得られるというのが、うさぎさんの論理である。
しかしそれは、「私」の内面を構築するものとの相互交換がバランス良くあってのこと。刻一刻と変わりゆく「私」の一部を取り出し、固定しようとすることの危険性こそ意識してほしい。
by senrufan | 2006-05-15 16:18


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