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蓄積されるのは時間だけでなく

長い長い雨季が終わって。
はああ、ようやく春ですねえ。(お茶をすする)

なんてひたる暇もなく、いきなり夏ですよ。三日坊主の春なんてあっていいんですか。
いきなりの暑さにゆだったお嬢のリクエストにより、今日の夕食は素麺でした。

* * * * *

【読書】
「記憶がウソをつく!」を読む。養老先生とアナウンサーの古館伊知郎氏の対談本。
記憶とは一体どういうものか? 古館氏のぶつける様々な疑問に、脳の専門家である養老先生が答える。

古館氏の疑問の一つに、なぜある記憶から全く関連のない記憶に飛んだりするのかというのがあったが、この本もその言葉のように、どんどん畳み掛けるように話が流れていく。
しかしその流れが実に面白い。古館氏は素人のような顔をして実は雑知識の多い方なので、養老先生の一つの答えから連想するものをあれもこれもと引っ張り出して、目の前に並べていかれる。回転が早いのは舌だけではないんだよね。当たり前。
本一冊に、隙間なく脳に関する話が敷き詰められており、どこをとっても興味が尽きない。専門知識が豊富な方の話は面白いが、同時に雑多な知識も沢山持っておられれば尚更面白いものだ。そういう意味で、このお二人の対談は面白くないはずがない。

タイトルになっている「記憶がウソをつく」というのは、つまり人間は生きていて細胞も入れ替わるから、当然脳も変わり、その中にしまわれている記憶も自然に変わる、ということらしい。それは意図的なものではなく、独りでに変形していくものらしい。
部分部分で持っている記憶を無意識に繋げて、物語性をもたせると記憶に残りやすい。だから自分が一遍のストーリーのような昔の記憶を持っているとすれば、疑ってかかる必要があるわけで。

しかしこの「生きているから変化する」ということが、養老先生の一貫した主張の根本にある大事な礎石だ。
一つ知識を得ると、それを知らなかった頃の自分には戻れない。情報は自分の外側に蓄積されていくもので、自分の内面を変えるまでには至らないと信じるのは、大きな間違いである以上に、実は危険な考えだ。自分が変わることを認めないのは、生きて移ろいゆく脳を固定した状態に変えようということであり、突き詰めれば無常を恐れ、死を認めないことに繋がることからだ。
でも実際はそんな感覚も勇気もなく、10年たったら、定年になったら、そんな計画をいつしか考えているのが大方のところだろう。
祇園精舎の鐘の音も鴨川の流れも、何百年も昔から諸行無常をうたっているのに。自分自身が記憶と身体の変化を感じとる日々を送っているのに。

変わる記憶を認めることは、ひいては変わる自分を意識することになるのか。過去を引きずるのではなく、過去を完全に忘れ去るのでもない再スタート。そんなリセットは、実は人は常に変わるという認識が無ければ成り立たない。
自分がそう見てると思っていて、本当は脳がそう認識しているだけのバーチャルな世界とその記憶。それを少しずつ積み重ねて、この瞬間の自分が存在する。



ところでお話の中に、
右脳を活用する人は芸術に関係が深く、その分言語能力(左脳担当)が低くなり、外国語が苦手である。
とあったのですが。

両方高い人もいて、両方低い人もいるってゆうのは切ないです。後者代表の愚痴でした。
by senrufan | 2006-04-27 12:53


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