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未完成なやわらかさ

「Empowering Women, Empowering Humanity: Picture it!」
   ----- 2015年3月8日 国際婦人デー(International Women’s Day)のスローガン


HB

すみません、こんなところで言うのはアレなんですが、誕生日だったんですよ。

そしたら、その日のGoogleのロゴが、こんな風になっていて、びっくり仰天です。
えーっ、えーっ、こんなの、前からやってましたっけ?
思わず、記念にスクショを撮ってしまいましたです。

検索エンジンは断然Google、ブラウザはGoogle Chromeを愛用するという、
かなりぐーぐる寄りを自認するワタクシ。
きっと、ほとんどの個人情報を提供しちゃってると思うんですが、
それさえも悔いはない、どころか、もー、私の全てを持ってってーっ、となっちゃうぐらいに、
またまたぐーぐるさんに惚れました。
IT音痴って、これだから。

* * * * *

【読書】

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さて先日、暑っ苦しく語ってしまった、池谷裕二博士のご本
貸してくれたお友達に、これまた暑っ苦しくカンドーを伝えましたら、なんと更に3冊の本を貸してくれたんですよ。
もー、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。(感謝の嵐)

貸してくれたのは、「海馬」「ゆらぐ脳」、そして「和解する脳」
本を渡してくれる時に彼女が、池谷さんの研究姿勢に変化があるので、発行年順に読んだ方がいいよ、とアドバイスしてくれたんですよ。
なので、↑の順に読んだのですが、これがほんとにアドバイス通り。
「海馬」では、海馬を専門として研究する研究者として、高度な内容を平易な言葉で糸井重里氏と読者に対して説明してくれるという、わかりやすい本だったのですが、
それが「ゆらぐ脳」では、インタビュー形式で、自分がそういう研究姿勢を根本から見直しつつある、模索している最中であることを語っておられるんですね。

「和解する脳」は、コメントでノンノンさんが薦めてくださった通り、本当に面白かったです。
これまた、各章ごとに全部感想を書いてしまいたいぐらい。できませんけど。(万年無能)

ですが、今回の日記では、「ゆらぐ脳」から学んだことに絡めて、うだうだと。
これまた、前々から悶々と思っていたことに加えて、タイムリーに考えさせられるニュースが入ってきたことに、博士が書かれたことが当てはまってるように思えましたので。
まーた長くて、まとまりもないので、以下はお進みにならないこと推奨です。

今回も、何にも画像がないのも寂しいので、12月のサンフランシスコの風景でも。
……天気が悪くて、更に寂しさ倍増の画像でありますが。




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前に、大学をG大学とL大学に分けたらどうか、という提言についての記事を読んで、
衝撃を受けたという日記を書きました。
そういう話自体は何年も前からありましたし、規制緩和で、企業が作った大学もできてましたから、冷静に考えれば、それほど驚くことではなかったのですけれど。
でも、その手の大学は、結局経営不振で消えたりしてたので、あまり気にしてなかったんですよね。

それが先日、こんな対談記事を読んだのです。
実際に対談が行われてたのは2013年だそうで、なんで今頃記事になったんだろう……
時間差でショーゲキを受けちゃったじゃないですか。

「日本史なんかより、プログラミングを教えるべき」
  三木谷浩史氏と夏野剛氏が日本の技術者不足を嘆く


珍しい意見ではないのです。そして、おっしゃることも良くわかるのです。
でも、私自身はそれに諸手を挙げては賛成しない。それはどうして、どう思うから?
というのが、この数ヶ月、ずっと心のどこかにひっかかっていたんですね。

そうしたら、池谷博士のこの本に、また大きなヒントをいただいたのでございます。


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この本を書かれた2008年では、生命科学の主流は分子生物学だそうで。
つまり、とある生物を調べる時、遺伝子などの分子レベルの分析を行うという方法ですね。
○○の病気の要因となる遺伝子を特定できた、というニュースが飛び込んでくるのは、
きっとこういう分析を懸命にやっておられる科学者さん達のおかげなんでしょうね。

博士の説明によれば、分子生物学の方法を簡単に言えば、
「マウスの特定の遺伝子を壊してみて、マウスがどうなるかを観察してみよう」
という方式なんだそうで。
部分を除去することで、全体に何が起こるかを観察する。
その因子の役割が分からない時、それを破壊してみれば、役割が見えてくるのではないか。
という考えで、ふむふむ、と思いますよね。

で、この方式に対して、池谷博士は、
単一分子を追求しているだけでは、物事全体の本質は見えてこないのではないか
と考えられるようになるのです。
脳の活動の基本は確かに、「一つのシナプス」「一つの神経細胞」にあります。
しかし、「部分」は「部分」にすぎない。

そこで、「各神経細胞の個性を見ながら、神経細胞の相互の活動の関係を眺める」為に、
「多ニューロンカルシウム画像法」という新しい記録方法を開発されます。
結果、それまで「最速で1秒50枚」だった撮影スピードが、「1秒で2,000枚」に引き上げられ、
今まで目にしたことがなかった画像が、「発見」が、次々と押し寄せてくることになります。
これにより、脳の「細胞」ではなく、細胞と細胞の相互関係が生み出す「回路/システム」の階層が研究できるようになったのですね。


と、すごい発見が詰まっているであろう巨大なデータを前にして、博士は途方に暮れます。
どこから手をつけたらいいのかわからず、従来の解析法は使えない。
その地点で役に立ったのが、「どれだけ専門分野以外を勉強したことがあるか」の経験だったそうです。

具体的には、例えば「音楽理論の勉強をした経験」を用いられます。
つまり、数百の神経細胞一つ一つを一人の音楽家として、そして活動の全体を、オーケストラの音楽のように捉える、というやり方ですね。
データを元に、各神経細胞の活動ごとに一音を割り当て、活動時間に即して、音楽に変換してみたところ、
「耳で吸収できる情報」として、その姿を現したそうです。

この、「部分の総和は全体にならない」という、”複雑系”の考え方。
にんじんの栄養素を全部足しても、にんじんにはならない。
世界トップレベルの演奏家を集めても、世界最高のオーケストラになるとは限らない。
逆に言えば、○○を食べれば痩せる、とか、△△人ってああだよね、とか、
そういう一分子だけを取り上げて全体を判断することがはらむ危険性。
博士のおかげで、こちらに関しても、ぐだぐだと書きたいことてんこ盛りなんですが、それは遠くに置いといて。

その後、池谷博士は、ご自身のHPで、この脳の神経細胞の最新データを、
どうぞ解析して、色々と発見してください、と公開されています。
え、特許とか第一発見とかいいんですか、と思ってしまいますが、
それでも「知りたい」という気持ちが何よりも強いので、と。

また、この研究は、多数のサイエンティストが学際的な研究を行っていかないと、
到底「分かる」ものではない、というのが理由とされています。
経済学の手法を利用すると言っても、専門家でないと、どうしても抜けもあるでしょうし、
あまりに従来のサイエンスのアプローチが通用しないことが明白な為、
視点を増やして研究する必要がある。
それがひいては、人類全体への貢献に繋がるのではないか、とおっしゃっているんですね。

こういう風に考えて、実際に行動される科学者の方は、きっと少数派。
それでも、一連の博士の言説に、大きな励ましをいただいたように感じたのでございます。


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ほめ言葉としての「専門バカ」を否定するわけではありません。
それ一筋でやってきて、ふさわしい成果をあげられている方もいらっしゃることと思います。

それでも尚、他分野の学びを、歴史や文学、哲学、アートといった分野の勉強を、決しておろそかにしてほしくない、と考えるのは、
知識以上に、そういう分野での分析方法や学び方が、様々な他分野においても活用できるから、に他なりません。

「教養」という視点から語ることも大切ですが、だったら無駄な教養なんて要らない、というのが、
冒頭の提言に関わった方々やネットビジネスのTOPの方々のお考え。
ただ、彼らが理解していないのではないかと思ってしまうのが、「教養」イコール、作家や文学作品名、歴史の年号、有名絵画の作家名ではない、ということ。
教養とは、雑学や雑多な知識の寄せ集めのことでは、決してないのです。

G/L大学の提言の中で、具体案として示されたもの。
シェイクスピアや文学概論ではなく、観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力。
ポーターの経済論ではなく、簿記・会計、会計ソフトの使い方。
機械力学ではなく、最新鋭工作機械の使い方。

ところがまず、表面的な英語は、いずれ機械翻訳がとって代わる時代がきます。
録音ガイドより上にいくガイド業となれば、名所だけでなく日本史・世界史全般に通じていなければなりません。
簿記や会計も、工作機械を扱うのも、いずれロボットや人工知能が行うようになります。

Amazon物流センターの劣悪労働環境を訴えた人達を脇目に、Amazonが発表したのが、
倉庫ロボットの導入による人件費削減でした。
そういう機械にとって代わられることのない、人として身につけるべきものを教えること。
それが教育の目的の一つ、と思います。

上記記事のような意見を持つ産業界の方々は、「即戦力」が欲しいから、とおっしゃいます。
その「即戦力」に求める能力や分野が、永続的に変わらないものと思っていらっしゃるのでしょうか、と問いかけたくなります。
20年前には花形とされていた半導体産業の、今の凋落ぶり。
「学生に人気の企業TOP50」の、数年ごとの入れ替わり。
就職がないと不安を煽られ、就職しやすい学部を、就職に有利な大学を、と右往左往する学生とその親御さん方。

「即戦力」を求められる方々のうち、極端なご意見を滔々と述べられる方を見ていると、
「教養」という言葉の意味を改めて考えさせられます。
つまり私にとって、「教養がない」というのは、自分の知らない事は大切なことではない、と思い込む視野の狭さも、それに当てはまるからです。
はい、思いっっっきり自戒を込めてます……(イタタタ)


出羽守と思われるかもしれませんが、アメリカでは、日本のような新卒一括採用はありません。
年々厳しくなる就職状況、学部卒では採用は難しくなるばかりで、少なくとも在学中から様々なインターン経験を積み上げることが必須です。
そして大学院進学が、一部では当たり前のようになりつつあります。
マスターを持ってないと、スタートラインに立つことも難しい、そんな分野も出てきている模様です。

加えて、一流とされる大学が、Liberal Arts Programに力を入れる度合いの強さ。
総合大学のみならず、理工系の大学でも、人文・芸術系科目は重要視され、充実しています。
そして、2つ以上の専攻を持てることを生かして、個々人でバランスを考えて履修できるのです。
イギリスの大学では、大学からは完全に専門課程となりますが、それは高校までで一般教養課程を履修しているから、と聞いてます。

なぜこういった大学で、日本で言うところの”実学”を教えないのか?
一つには上記の通り、今現在で最先端とされるものの寿命の短さを良く知っているから。
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」という言葉を残したのは、小泉信三氏でしたね。

↑の記事の中で、日本史なんかいらないと思う理由を語られていますが、
それは年号や人物の名前などにこだわった、瑣末とまでは言わないまでも、
幹のない枝葉の”知識”を問う方法で教えているからですよね。
そら無理ないわ、と思う点も多いです。

本来、歴史とは、縦と横のあらゆる時代の動きを総合的に学ぶ学問ですよね。
なのに、カッコの中の年号を答えなさい、という設問に答えられることだけに目標を置いていたら、
それこそ実際には役に立たない知識の山になりかねず。
とある時代に起こった、とある事件が、一体何を契機に、どういう背景で起こったのか、
そして、その出来事が後の時代にもたらしたものは何か。
出来事や人物といった「細胞」だけを抽出して見ているだけでは、
その時代という「システム」を分かることはできないのです。

問題作成者側の期待を当てる為の、「作者の言いたいことを答えなさい」的設問。
「教育」と名のつくものが担うべきことは、頑丈な「根」を作ることであるはず、と考えるなら、
変えるべきなのは、人文系科目そのものではなく、その教え方と学び方であろう、と思います。

続けて言えば、政府や大学がやっきになっている「グローバル化」とは、
英語で授業することや社内公用語を英語にすること、ではありませんよね。
それはむしろ、顔を黒塗りにすることが、どうして黒人へのリスペクトを意味しないのかを知ること、
人種ごとに分かれて住むようにすることは、「区別」ではなく「差別」である、という感覚を身に着けることです。
プロの通訳さんや翻訳家の方が、日頃どれほどの努力を払って、その微妙な差異を伝えようとされていることか。
それは、決して機械翻訳で成し遂げられない部分ではないでしょうか。


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池谷博士によれば、脳の神経細胞には「可塑性」があり、自分で自分の活動を参照しながら、
”やわらかく”自分を書き替えていくのだそうです。
これは、人工知能にはないことであり、これぞ「生命の本質」だと捉えていらっしゃいます。

コンピューターに、数百から数千の神経細胞からなる脳回路をデザインして、
その中でつなぎかえを行わせて、自分で自分を書き替えるプログラミングを走らせると、
そのうちに状態が一つに安定するのだそうで。
シミュレーション後、「活動がなくなる(=死)」か「全て活動する(=活動爆発)」のどちらかに安定して、それ以上変化しなくなって終了するのだそうですよ。

今たまたま有力とされる企業が、狭い視野で要求する実学だけを身に着けた社員(細胞)が、
やわらかく学んで自己を変革・前進させていける可能性は、どこまであるのでしょう。

グローバルと同様に、良くメディアなどで目にするようになった言葉の一つが「多様性」ですが、
これは英語で言えば、「variety」ではなく、「diversity」である、というのは、こちらに来て、ようやく知ったこと。はい、私こそ無教養です……
博士は「多様性」とは、ランダムでバラバラなのではなくて、「系統の中の派生」という言い方を使っていらっしゃいます。
つまり、人種にしろ細胞にしろ、一つのシステムの中で繋がっている、ということですよね。

博士が、学校での科目も同様、と書いてくださったことを、ありがたく思います。
科目毎の差異も「diversity」であり、国語の文章は論理の点でサイエンスの方法論につながり、
感覚の文章も、数学の解法のインスピレーションにつながる。
根底のところで各教科の勉強はつながりあうもので、一見関係のないものを排除する「合理主義」は、実は非効率である、と穏やかに指摘されています。

結局、目的物しか見ない「合理主義」は、そこでシステムを停滞させてしまう可能性がある。
やわらかく、弾力性に富んだシステム=組織を大局的に見て作り上げていくことこそ、
機械で置き換えられない人間の仕事の一つである、と言えるのではないか、と思います。


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今では医学部で、リベラルアーツの復帰論が強い、という話を聞きました。
人の命を預かる現場で生きていく為には、強くてしなやかな核が必要で、
それは技術を学ぶことだけでは得られないものだ、ということがわかっている人達がいるからです。

今、一番怖いのが、冒頭のような提言を受けて、人文系学部をなくす大学が現れるのではないか、ということです。
そして10年、20年後に、実学と思っていた分野が人工知能などに置き換えられてから、
慌てて教養、教養と言い出した時こそ、悪夢です。

何度も書いてますが、想像力、創造力、共感力、俯瞰する力というのは、
気づかないまま狭い視野にある限り、身につけ得ないもので。
自分の興味のないことへの無関心は、想像力の欠如を招きます。や、想像力がないから、かも。


と、ここまでわけのわからんことをうだうだしましたが、それでも日本の教育システムというのは、
今まで素晴らしい成果をあげてきたものである、という感謝の気持ちは変わりません。
ただ、システムである以上、継続する為には、変化していかねばならない宿命です。

時代は大きく変動しているので、従来のシステムでは対処できないことは明白ですが、
かといって、古い項目(細胞)を、他国を模倣した項目(細胞)に単純に置き換えたところで、
全体が上手くいくとは限らない。
教育とは、生きている子供達を大きく包み込んで育てるものであり、
その教育システムもまた、生き物です。
部分の総和が全体にならないのは、脳活動のみならず、私達が持つ個々の身体を見ても、
明らかな事実です。

提言という形を取る以上、なんらかの希望的成果を含むものを求められ、
また表面的な形式を取らなくてはならないことは理解します。
ですので、今はただ、「教養ある」方々の参加を、切に願うのみでございます。
by senrufan | 2015-03-08 15:05


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