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君が、君のままであることを

「私はコンセンサス(関係者の意見の一致をはかること)というものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから」
   ----- マーガレット・サッチャー
        (イギリス人、政治家、1925年10月13日生まれ)


タイコマーシャル 日本語訳 -My favorite Thai TV CM #2



旦那が見つけて送ってきた動画です。
ヒッチコックの「知りすぎていた男」の中で、ドリス・デイが歌うこの曲は、オールドムービー好きな私には、昔から大好きな一曲。
……のわりに、ちゃんと歌詞を知ったのは、この動画が初めてかもしれません。(赤っ恥)

子供達の拙くも愛らしいケ・セラ・セラも良いですが、私にとっては、やっぱりこっちだなあ、と思ってしまうオバサンを許して。

* * * * *

【個人的事情】

父親と娘の想いが切ないタイ生命保険のCM(日本語訳付き)



なんで旦那が「ケ・セラ・セラ」を見つけたかというと、元々はこちらの動画を探して、その関連で見つけたというわけでして。
タイの生命保険会社のCMなのですが、結構話題になっていたそうなので、ご存知の方も多いかも。
聾者のお父さんと娘の切ないストーリーは、わかっていても泣かされます。ふええん。

旦那はこれを、お嬢に見てほしかった模様。
……娘の愛が欲しかったのかい。ダイジョブだよ、ちゃんと父ちゃんのことは尊敬してるから。

ただ、この動画を教わったタイミングがたまたま、とある本を読んだ後でして。
それが、聾学校の生徒達が中心になる話だったので、こちらのお父さんと重なって、色々と物思いにふけってしまったわけでございます。




その本とは、ジェフリー・ディーヴァー著、「静寂の叫び」(上・下)です。
聾学校の生徒と教師を乗せたスクールバスが、3人の脱獄囚によって乗っ取られ、廃工場に生徒達を人質として立てこもり。FBI危機管理チームとの人質解放交渉のやりとりが、手に汗を握る筆致で描かれた、サスペンスの秀作です。
ストーリーそのものも相当面白かったのですが、私が更に興味を引かれたのが、聾者について語られたあれこれ、でありました。

FBIチームのリーダーである主人公が、人質の一人の背景を聞いて口にしたコメントに対し、手話通訳者がきっぱりと言い切ります。

「同性愛者、身体麻痺患者、運動選手、背が高い・低い人、アルコール中毒など、人が与えられる身体的条件は様々ですが、聾者ほど独自の文化と社会を作り上げた人達はいません。
彼らのコミュニティは軍隊並の団結力を持っているんです。耳が聞こえないから臆病だ、などというのは、およそ見当違いの評価ですわ」

当該の聾者コミュニティでは、耳が聞こえない両親から生まれ、言語能力を一切持たない人が、一番高いステイタスを得られる、のだそうで。
健聴者の両親から、正常な聴覚をもって生まれ、しゃべることや唇を読むことができると、同じステイタスは与えられないのだ、と。
そして、聾者でありながら、正常な聴覚を持つ人達に受け入れられようとする人は、更にステイタスが下がる。
こういうことに言及した箇所が数箇所あって、大きなショックを受けました。

つまり彼女達は、”口話(読唇術を含む)”を使うことは、”外の世界(健聴者の世界)”にも通用する存在でありたいと願っていることであり、自分が聾者であることを堂々と認めていないことになり。
それは、自分が自分自身でなくなることである、との主張に、頭から水をかけられたような思いがしたのです。

本の中で、米国はワシントンD.C.にある聴覚障害者の為の大学、ギャローデッド大学についてや、80年代における聾者の抗議運動などについて書いてあったので、それを手がかりにして調べよう、と思ったら、なんのこたーない、Wikiさんに記述がありました。

ろう文化 

小文字で始まる聴覚障害(deaf)という言葉は、耳が聞こえないという物理的な状態を指し、
大文字で始まる方(Deaf)の言葉は、聴覚障害者の社会と文化を意味するのが、英語においての定義、ということは本にも書いてあったのですが。
日本では、前者を「聾」、後者を「ろう」と記述することで区別している向きもある、ということは、Wikiで教わりました。


米国での聾者の権利を求めた運動が、公民権運動の一環として認められたということは。
手話で意思伝達を行うことを、肌の色の違いや髪の色の差と同様に認識するべき、ということで。
母国外に住む私達が、その国内でコミュニティを持つのと同じで、彼らも彼らの文化を守って継承していくコミュニティがあるのですね。
ただ、母国語を維持しながらも、その国の言葉も身につけるように努力すべき、と考える健聴者のやり方は、それが”外の世界”の言葉であれば、聾者コミュでは通じない。もしくは、軽蔑されることもありえる考え方、なのかもしれません。

私がこのことでショックを受けたのは、障害者教育について、自分が考えてきたことが間違っていた、と思ったからでございます。
アメリカに来て、ADHDや自閉症、学習障害などの子供達に対しての受け入れ方を知った時は、はっきりと感銘を受けました。
日本では特殊学級に入るしか手がなく、しかもそこに入ったらずっとそのままで、決して一般学級に移ることはない子供達。
そうではなく、公費で様々なケアを受けることができ、そうしたケアを通じて目標とするのは、将来的な一般学級への参加である、という説明を受けてきましたし、それを信じてまいりました。
その内容と段階は多岐に渡るので、一概には言えないことであるのは、承知済みであったとしても、です。

それが、”外の世界”である一般学級に入ることは、自分達自身でなくなることであるのだ、と。
彼らの世界と通じる為に、”外の世界”の住人こそ、学ばなくてはならないことが沢山あるのだ、と。
勿論、彼ら側の事情ややり方について、知らなくて良いなどと思っていたわけではありません。
が、根本となる考えを真逆に持っていたことを、芯から恥ずかしく感じずにはいられませんでした。


先日、自閉症児のケアに詳しい友人に、時間をとってもらって、色々と教わりました。
私みたいな、素人中の素人にも良くわかるレベルで話してくれて、本当にありがたい時間でした。

「耳で聞く以外はなんでもできる」と自負する聾者と、自閉症やダウン症の人達とは、また全然違う状況で。
そしてその分、想像しきれないほどのご家族のご苦労に、胸が痛くて痛くて、どうしようもなく。
ただ、それでも知りたい、知っておかなくては、と思うので。

知らないから、怖くなる。無知ゆえに抱く、警戒心や怖れの気持ち。差別の形の一つです。
私程度のヤツが、絶対公平・無偏見になんて、なれるわけがなく。
それでも、知らないで勝手に思い込み、しかもそれに気づいていない、という状況に陥ることに対する、強い恐怖心。
無意識に差別して、人を傷つけて、それを知らないで過ごしている自分になりたくない、などと、全く利己的に過ぎない願いであるのですけれど。

ずっと前に、3人の聾者の方々が、手話で話しながら歩いていくのを見かけたことがあるのです。
それはそれは楽しそうで、一体何を話しているんだろう、ととても知りたくなったのです。
それは例えば、外国語で話している人達を見て、何の話題なのか知りたくなったのと、全く変わらない気持ちでそう思ったのです。

ちょうど今年の8月5日に、日本で改正障害者基本法が公布・施行されました。
これにより、日本で初めて、手話の言語性を認めた法律ができたことになるそうです。

手話も口語と同様に、国際的な共通語はなく、各国それぞれの言語を使用している状況で。
”外の世界”の言葉じゃなくて、米国式手話がわからない。フランス流にいたっては、お手上げさ。
耳が聞こえる私でも、少なくともその気持ちだけは理解できることが、ごくささやかな喜びです。
by senrufan | 2011-10-13 09:15


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