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それが私の生きる道

「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」
   ----- ウラディミール・ホロヴィッツ
        (ロシア→アメリカ人、ピアニスト、1903年10月1日生まれ)


日曜のチャリティーイベント、お琴のコンサート&ベークセールにおじゃまして参りました。
残念ながら予定が詰まっていて時間がとれず、幾つか買わせていただくのが精一杯で、コンサートは鑑賞できず……悔しいいいいぃぃぃ(涙)

ばんずさんを始め、スタッフ及びボランティアの皆様、本当にありがとうございました!!
お菓子からお惣菜まで揃えてくださって、クラフト品も充実の、素敵なセールでございましたよ~。
いただいたお菓子は、どれも美味。そしてラッピングが、市販品顔負けの見事さ。
しみじみ味わい、惚れ惚れ拝見して、今後私は買い専門に徹することに決めました。(おい)

大活躍だったばんずさん、そしてまたまた美味しいお菓子を提供してくださったchiblitsさんが、終了報告をあげて下さっていますので、どうぞご覧くださいませ。

ご報告☆お琴のコンサート&ベークセール (ばんずさん)

チャリティー イベントのご報告です (chiblitsさん)

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そしてもう一つ、チャリティーバサーのお知らせです。(拍手)
Walnut Creekの個人の御宅にて、手作りお料理やクラフト品に加えて、「がんばれ日本Tシャツ」が販売されますぞ。大人気で、400枚以上売れたこちらのTシャツも、とうとう残り20枚だそうで。(焦)
3名の方による有志バザーで、寄付先等は各自で検討中、とのことです。
・10月15日(土) 午後12時~3時
・おこわ、赤飯、キャラ弁、パン、焼き菓子各種、食べるラー油などなど
 他にもキルト、レース編み、手作り石鹸などのクラフトも予定
・場所は個人宅につき、お手数ですが下記までお問い合わせくださいませ
    echocostanzo@gmail.com

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東日本大震災の為のチャリティー@ベイエリア

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【イベント】

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コンサート記録を2つ、続けます。
とある週の日曜と、その週末の土曜に、それぞれサンフランシスコで鑑賞してきたのであります。

1つ目は、フジコ・ヘミングさん東日本大震災支援チャリティーコンサート
10年目を迎えた9.11に行われたこともあり、感慨深い演奏会でありました。

コンサートが開催されたのは、SFはPalace of Fine Arts。ローマの遺跡のような場所。
この中のEmporiumに昔来たはずなのですけど、すっかり忘却の彼方でありました。(爆)




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フジコ・ヘミングさん、日本流だとフジ子・ヘミングさんといえば、彼女の半生を綴ったNHKのドキュメンタリーが大反響を呼び、その後発売されたCD・「奇跡のカンパネラ」が大ヒット。
以来、78歳となられる現在においても、積極的に演奏活動を行っていらっしゃるのですね。

でも、日本を離れた僻地に住む私がフジ子さんを知ったのは、なんとベジタリアン雑誌からでありまして。ベジタリアンな著名人の特集で、フジ子さんのページがあったのですよ。
ピアニストだった友人に話したところ、彼女の自伝を貸してくれたので、それを1日で読み終わり。
フジ子さんには大変失礼なことながら、演奏を聴く以前に、フジ子さんという人間像に興味を持った、というのが本当のところです。

コンサート終了後に検索してみれば、まあ出てくる出てくる、賛同と批判の嵐。
彼女の演奏が好き、という人に対して、あんな下手な演奏が、と攻撃する輩がいるかと思えば、冷静に判断してレベルが低い、という感想に向かって、耳だけでなく心がないのだ、と罵る人もいて。
ご本人の菜食についてのインタビューと自伝しかソースがなかった私には、とにかくショーゲキでありました。(怖いよおおおおぉぉ)

良くも悪くも日本では、TVがきっかけになったブームであるが故に、純粋に演奏だけを聴いてもらうことは難しくなってしまった彼女に、勝手ながら同情を覚えずにはいられず。
実際私自身、興味を覚えたのは彼女の人間像の方なのですから、クラシックファンの方々からしたら、邪道この上ないことであったのかもしれません。

それでも演奏家というものは、演奏だけでなく、やはり本人の背景をも含んで、聴衆の前に立つ存在でありますから。
その人に興味を持った、だから演奏を聴いてみた。クラシックの専門家でもなんでもない人間が、そういう形で入ろうとすることに、何の問題もないと思うのです。
演奏が先か、人物像が先か。どちらから入っても、そこで好印象を抱けば、そのままもう一つに繋がるわけですから。
というより、繋がっていってくれれば更に歓迎、と言った方が良いのかも。


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ベジタリアン雑誌でもう一つ紹介されていたのは、彼女のチャリティー活動家としての一面でした。
年間CDセールスの印税を、9.11の被害者救済の為に全額寄付したり、アフガニスタン難民へ寄付されたりしていらっしゃるのですね。
「私は人のために生きてるの、だからチャリティーは私にとって使命なのよ」
とおっしゃるフジ子さんが、わざわざアメリカ各地で震災チャリティーコンサートを行ってくださったのは、彼女にとっては、何の不思議もないことであったのかもしれません。

ベジタリアンになって以来、病気と無縁になった彼女が皆に薦めるのが、菜食&粗食生活
「もし1万円あったら、千円は誰かにあげるような気持ちを持つべきよ。そういう気持ちを持たずに、ただひたすら貯めて良いマンションに住もうと思っても、何かの拍子で失っちゃうわよ。
そういった事に多くの人々が気づいてほしいの。そういう事を知らないことや感じないってことは悲劇なの。
通りすがりの乞食は、あなたを試しているエンジェルかもしれないのよ」

もしかしたら、演奏に対する周囲の喧々諤々などとっくに越えて、彼女は別なものを目指して活動しているのでは、とも思わされてしまうのですね。


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そして、初めて聴いた彼女の演奏は。正直、私の耳にも、上手い演奏とは言い難く。
ミスタッチも多く、ペダル音の濁りが耳についた箇所も幾つかあったのは事実です。
そういう技術的なことを圧倒するだけの叙情的な感動にも、残念ながら襲われることはありませんでした。

駄菓子菓子、それでこのコンサートを後悔したかといえば、決してそうではありません。
クラシックピアノ曲の中でも、特にポピュラーなものを選んでくださったその選曲、愛嬌のあるご本人のご挨拶とお声、プログラムにはない曲を数曲足してくださったサービス精神。
好きな曲満載でとても嬉しい時間だったのと、ピアノコンサートは初めてとか、今までピアノに興味はなかったけれど、という観客の方々には、特に楽しめる内容となっていたと思うのです。

それは、プロの演奏家への褒め言葉ではない、と言われてしまうかもしれませんが。
芸術というものは、絵にしろ音楽にしろ、それに接する人が好きか嫌いかということが一番なのではないか、と個人的には考えていますので。
鑑賞している相手の胸に、何らかのポジティブな感情が発生した時点で、すでに意味がある、と思います。

作曲家の希望はあれど、最終的にその演奏家の”作品”とする為には、演奏家の方なりの解釈があるわけで。
そうして出来上がった”作品”に対して、好きと思うか、嫌いと思うか、それは今度は鑑賞する側の番であって、好き嫌いについて言及するのも、自由で良い。

だから自分の感想を述べた人に対して、自分が異なる感想を持ったからといって、攻撃する必要はないはず、なのですけどね。
これは、音楽についてだけのことでは、全くないのですけどね……


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とあるバイオリニストの方から、うかがった事なのですが。
真の演奏家とは、作曲家が本当に望んでいた形で曲を伝える「媒体」であるべきで。
ある程度の解釈の自由はあるにせよ、ここは崩してはいけないという枠があり、それを尊重して守って伝えていくことで、クラシックは今でもクラシックであるのだと。
だから、「弾いている演奏家」が前面に出ている演奏は、やっぱり違うのだ、とお話ししてくださったのです。

フジ子さんブームを危惧するクラシックファンの方のお気持ちは、及ばずながらわかります。
一過性のブームで音楽を語ってほしくないとか、他の人の演奏も聴いて、もっとクラシックピアノの素晴らしさを知ってほしいとか。
ですが、フジ子さんの演奏のみならず、彼女の演奏を聴いて覚えた感動をも否定するのであれば、クラシックへの壁が厚くなるだけでありましょう。

同時に、フジ子さんに好意を持つ一人としても、今のブームを不安に思う点もあり。
熱しやすく冷めやすい日本のブーム、これだけもてはやしておいて、いずれ「過去の人」にされたら切なすぎるよなあ、などと。
自分こそ、そのブームのおかげで彼女を知ることができたのに、そんな諸々を思ってしまいます。

そして、フジ子さんご自身のお言葉も。
「こころの清らかな人々がわたしの演奏を受け入れてくれる」
こう言われてしまうと、神経逆撫で・抱かなくてもいい罪悪感に駆られる、という人達もいらっしゃったり、なー。
それに、これは正しくはないですぞ。こころが真っ黒焦げな私も、フジ子さんの演奏は十分楽しませていただきましたからね。(フォローになっとらん)


例えばあるピアニストに惚れ込んだところから、もしくは、あるピアノ曲に魅了されたところから。
出発点がどこであっても、そこから伸びた興味の矢印が、ピアノという楽器・ピアノを使った楽曲に、ひいてはクラシック音楽への好意に繋がれば良いのになあ、と。
それは知識や薀蓄のこと以前に、ただ聴いて心地良いとか、好きな音を発見する喜びとか、そういうもののことであって。
「クラシックは難しい」、「わからないからクラシックは聴けない」。こういった言葉を耳にするたび、残念に思う気持ちばかりが沸いてきます。

と言いながら、絵画でも音楽でも、自分が悲しいなあ、と思うのは。
何も知らない子供のように、純粋にその作品を味わうことができずに、どうしても頭で考える過程を経てしまうこと、ですね。
真正面に向き合って、ただ好きか嫌いか、それだけを感じたいのに。
評判だとか受賞歴とか、他の人達の好みとか。耳や目から入ってくる情報に気を取られて、どうやってもそれが拭えない。
なので、せめてこういった公演の前は、何も下調べをしないで行くようにはしていても。
白紙のその状態が逆に不安を呼んで、完全に鑑賞に集中できなかったりする時があるのが、なんとも情けない限り。

これも、「自分は無知で鑑賞力がない」という前提に立ってしまっているから、であって。
フジ子さんのおっしゃる「こころの清らかさ」というのが、こういうことを指しているのだとしたら、むしろ大いに励みになる言葉、でもありえるのですけれど。


いつまでも純粋無垢なままでいることに努めてきて、これからも自然体でいく、とおっしゃるフジ子さん。
演奏も、本を通じて勝手に感じた人となりも、現にとっておられる行動も。本当にその通り、と思わされてなりません。
様々な苦難をなめてこられて、人生の夕暮れ時に「時の人」となられて。
喜びながらも無闇に驕ることなく、しがみつくことなく、語りたいことだけを語り、必要な分だけを受け取り、後は寄付なりで手放される。

愛とは行動することであり、人間はその為に使命を与えられている、と心から信じて、そのまま行動に移されるフジ子さんは。
観衆が、好きだ嫌いだ上手だ下手だと議論している横で、私のような俗物が、憧れつつもまだまだ辿り着けない境地に、すでに到達されていらっしゃるように思えるのです。


実は4歳からピアノを始めた私も、夢は可愛らしくピアニスト、だった頃があったのですけれど。
途中、将来の音大受験を勝手に課して、厳しいレッスンを強いる先生に当たり、それまではただ好きで弾いていたピアノが辛いものとなってしまい、高3に進学する時、受験を口実にやめるまで、その気持ちは残念ながら変わることはありませんでした。
吹奏楽やオーケストラを通じて、音楽から離れることはなかったのですが、管楽器も大学卒業と共にきっぱりと手放し、今ではこうやって、時々のコンサート鑑賞を楽しむだけで十分、と思っています。

が、そんな私でも、老後の楽しみに、もう一度ピアノを弾けたらなあ、と思わせてくれたのは、誰よりもフジ子さんでありました。


Ingrid Fuzjko Hemming Official Site (フジコ・ヘミング・オフィシャルサイト) 
by senrufan | 2011-10-01 11:46


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