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袖触れ合いながら歩こうよ

「世界から天然痘というひどい災難を排除するお役に立てるかもしれないと知った時の喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあった。あまりのうれしさに、法悦の境地に至ったほどだ」
   ----- エドワード・ジェンナー
       (イギリス人、医師、1749年5月17日生まれ)

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【家庭内事情】

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5月16日は、うちのペットであった、黄色いインコの命日でありました。
涙が止まらなかったあの日から、もう1年も経ってしまったんですねえ……(しみじみ)
お嬢と、今では1羽のみになってしまった水色インコと一緒に、庭でお墓参りをしましたですよ。


前にも書いた通り、2羽いる時は、随分とアクティブに見えていた水色インコ。
1羽になってみると、実は黄色のリードがあったからこそ、あれだけあちこち飛び回っていたんだ、ということがわかりました。(我が家は放し飼い)
いつも決まった場所でおとなしく過ごすようになった彼を見ては、胸が切なくなる日々が続きまして。
いっそ新しい鳥を飼おうか、という話も出たのは出たのですけど、やっぱりそれはできないよね、と。
私達も、空間にも胸にも開いた穴を、新しい鳥で埋めるということに、どうにも積極的になれないまま、現在に至っております。

カゴから嬉々として飛び出るのは、黄色の方であったので、今では手で誘い出してやらないと、ずっとカゴの中で過ごしたがる水色。ヒキコモリがもう一人増えた我が家。(……)
それでも外に出せば、彼なりのペースで、放し飼いの部屋の中、居心地の良いスポット数箇所だけを渡り歩いて過ごしております。




ところで黄色は最後、とある獣医さんのところで亡くなったのですけど。
2週間ほど前に、そこからハガキが来まして、その内容がこんなもので。
「黄色ちゃんの定期健診の時期が来ました。予約をおとり下さい」

感じたのは、怒りと切なさと喪失感、そして、一定の割合の諦めが混じったもの、でありました。ふう、やれやれ。


作家さんのご家族で、ご当人が亡くなられた後、雑誌社などから電話がかかってきて、
「○○先生に原稿をお願いしたいんですが」
という依頼を受けた、という話を幾つか読んだことがあります。

その電話を受けた家族の方は、
絶句されて言葉を失った方や、
咄嗟に、「今はおりません」「何時ごろお帰りになられますか?」「当分戻る予定はありません」というやり取りをしてしまった方、
泣き出してしまって電話を切った方など、
多少の反応の差はあれど、共通しているのは、「頭が真っ白になる」という、あの感覚ではないか、と想像します。

別れて1年経つペットについてでも、こんなことをふと投げかけられた時に覚えるのは、はっきりとその色合いの感情でありますのに。
これが肉親であればどれだけの、と思います。
水色が病気になった時、この獣医さんに行くべきかどうか。迷うところでありますな。
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ペットを持つのも、動物園などで動物を見るのも、基本大好きなのですが。
楽しくてわくわくする感情の裏に、いつも哀しみめいたものを抱えます。

これは、我ながらほんとにバッカだなー、の一言に尽きますが。
なんというか、動物本来の姿にないこと、人に飼われていることに対して、悲しさを感じてしまうのですよ。
動物本来の姿といったところで、人に飼われているからこそ、元気でいられる動物もいるわけで。
人との素晴らしい絆を築くに至った動物もいるわけで。
だから、バッカだなー、の中には、妙な幻想を抱いて、勝手に感傷的になる自分への呆れ度168%ぐらい、の思いがあるですよ。


犬派か猫派か、と良く聞かれますよね。
これがアフリカだと、ライオン派かゾウ派か、と聞かれるんですよね。(大嘘)
私の場合、今も昔も犬が大好きなのですが。
ここ数年それでも、飼うなら猫を選びたい、という気になってます。

犬派のくせして猫をとる理由は、なんかね、犬の方が、人が・人によって・人の為に、という気がすごくしちゃいまして。
猫も勿論、人によって、の面は多々あるものの、それでもまだ自分を譲らない。
悪く言えば、わがままで気まぐれ。でもそういうところに、人に全てを明け渡さないような部分を感じて、それにほっとするんですよ。

犬は忠実さが、時として痛々しく思われたり。
もし私が飼い主で、こんなに懐かれたら、愛しくてたまらないと同時に、とても重くなってしまうんじゃないかと。
私みたいなダメダメなヤツを、そんなに慕っちゃいけないよ、なんて、言いたい気にかられてしまったりする、と思うのです。

一回きりの人(動物)生なんだから、どうか好きに生きて欲しい。
その過程で、仲間として私がいられれば嬉しいな。
そんなことを考えてしまう、と思うのです。

一緒に生きるなら、”共存”という形でありたいと。
服従させるのではなく、”手入れ”という形で関わって。
以前書いた、犬猫の食物アレルギーのような話を耳にするたび、その形がどうあるべきか、悩んでも結論が出ないことに、拙い思いを馳せてしまうのでした。
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こんな風に、猫もいいなあ、なんて考えてる母ちゃんとは違って、お嬢はインコの天敵である猫に対して、ある種の警戒心を抱いておりまして。
そんな彼女が、黄色の命日の前日、お友達の家に遊びに行ったのですよ。

そのお友達の家には、猫が2匹いるそうなんですが。
お嬢は家にいる間中、目のかゆみがとまらなくて、猫を抱かせてもらった途端に、くしゃみを連発したらしく。
迎えに行った帰りの車中でも、ひっきりなしにくしゃみをしまくってたんですよね。


愛しいインコの命日は、お嬢の猫アレルギー発症記念日とも相成ったのでありました。(合掌)
by senrufan | 2010-05-17 12:22


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