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始点も終点も我に在り

「人生の最も重要な疑問に答えを出せる人は自分しかいない」
   ----- ジョン・ファウルズ
        (イギリス人、作家、1926年3月31日生まれ)


朝から、みかしゃんにだまされてガーン、な状態です。(しくしく)(思いっきし期待したのだ)


前回、「ホリスティックではイーストが」と書いたのは、まきりん♪さんからうかがった話だったのですけど。
あれから少し調べたら、”イーストコネクション”というものを教わったのですよ。

砂糖のとり過ぎはアレルギーを悪化させる!

こちらの記事によれば、
イーストコネクションとは、慢性カンジダ過敏症のことで、
腸管内にカンジダの仲間が異常に増えて起こす病気

なんだそうですよー。
なんだ、結局はお前かい、カンジダ。そしてどっちにしても、大好物は糖類なんだね、カンジダ。

ローフードや生菜食について知るにつれ、腸の健康がいかに大事か、日々学ばせていただいているわけですが。
自分も暴食した時、手足にアトピーのような症状が出たりしたので、アレルギーは腸と大いに関係がある、と思っているところ。
ベストセラーとなった「病気を治す生き方」の著者・新谷弘美先生も、腸の健康の重要さを説いていらっしゃいましたよね。

米国ではそのものずばり、「The Yeast Connection」という本がありまして。
それと連動する形でのサイトが、↓です。

The Yeast Connection

ゆっくり目を通してみたいのですが、本も読んでみたいのですが。
なんで英語なんだろうこれ……かといって、アラビア語でも困るけど。

* * * * *

【個人的事情】

さて、前回のカンジダから発展して、病気についての個人的つぶやき。
結局これも「またそれ?」という、ただの言葉の羅列ですねー、あははー。(乾笑)
なので、続きは本当に、謙遜じゃなく「タワゴト」なので、読む必要はありませぬぞ。





私の個人的意見としては、科学的なことを評価・判断できる能力はゼロでありますので、
前にも書いた通り、結局「自己免疫力を高めていこう」の一言に尽きます。
ましてやカンジダは、免疫力が低下した時に繁殖するもの、ということは、現在公式とされている認識のようですからして。

がんに罹るか罹らないか。原因はあまりに複雑すぎて、本当に紙一重の何かで分けられているだけ、と思います。
お酒やタバコ、ストレスなど、悪者とされるものは色々ありますが。それらを全て抱えていても罹らない人もいれば、普段からすごく気を配っていても罹ってしまう人もいて。
罹った後は、どういう治療を選ぶか、これもまた考えることが多すぎて。
ほんとに、かの説のように、原因は真菌だ・治療は重炭酸ナトリウムだ!と決まってしまえば、どんなに楽であることか。

だから少なくとも、罹った方は、ご自分を責めないでほしいなあ、と。
何か一つだけのせいではない、と思います。勿論、主要な原因というのはあるかもしれませんが、何かたった一つの行動や心がけだけのせいではないでしょう。
罹った人と罹らない人の差は、通常の個人と個人の違いの範疇。いまや、そう言ってしまえることなのかも、という気がしております。

勿論、罹ったとわかった後の葛藤や苦闘は、そんな”差”という言葉で片付けてしまえるものではない、と重々承知していますので。
罹らない可能性が高い道を模索したら、これまた、数多の情報や選択肢が溢れておりますから。
その中で、自分は何を選んでいくか。その為に、何か捨てなくてはならないのか、もしくは多くを抱えたまま臨んでいける道なのか。
じっと模索する、直感で選ぶ、やり方はそれぞれですが、まずここで沢山の「選択」をしなければならない、と思います。

一般的に、身体に良くないと評されることがありますよね。もしくは逆に、今はとても良いと思われてることも。
どちらを取るのも、個人の自由です。タバコを吸おうが、毎日ジョギングしようが。あ、でもドラッグはさすがにやめた方が(聞いてねえよ)

健康という観点から考えた場合に、どれを取るか、となった時。
それを選んで、望まない結果が出た時に、後悔したり人のせいにしたりしないで、自分で引き受けられるか、という話なんだと思うのです。


更に言うなら、がんでも何でも、「病気」に出会ったならば、それが自分にとってどういう意味があるのか、考えなきゃいけないなあ、としみじみ思います。

身体の声、という言葉を、何回も使うようになりましたが。
不調も病気も、正にその声の一つ、なんですよね。
だから、その声をよく聞いて、自分が今までどうしてたのか、これからどうしたいのか、よくよく考えるチャンスであるわけで。

病気になって知ったこと、病気をきっかけに変えたこと。人によって色々あると思います。
自分自身の病気だけでなく、身近な人や有名人の、でも。
そのせっかくの機会を、現在から遠くに続く道筋を思い描いた時に、明るい方に向かっているように。
気づいて、考えて、更にその次の道を選んでいく姿勢が、自身にとって潔いものであるように。


白状しますと、私はそれができませんでした。
母や叔父ががんになった時も、自分が手術を受けた時も。その症状が消えることしか考えてなかったなあ、と。

自分が片方の卵巣を失うことに決まった時に抱いたのは、仕方が無い、という思いがほとんどで。
ただ、失うものに対して、ごめんね、守ってあげられなくてごめんね、とは語りかけていましたけれど。
そう思ったのなら、あれをきっかけに、もっとできたことがあったはずなのに。

それでも自分のことなら、まだ良いのです。その状況も感情も、自分で処理できる余地がある、と思うから。
それが人のことになったら、どうにも手を出しようがなく。その無力感や、待っているだけのやり切れなさ。自分のことだったらどれほど楽か、と思うようなことも起こります。

自分で「選ぶ」ことは、それに伴うあれこれを考えた時、相当の勇気をかき集めないと決断できない場合もありますが。
それでも、ただ受身で待っているだけより、何か動いて、何かを動かして、できることがあるなら、その方がいい、と思います。
それによって起こることの責任も、当たり前に自分で背負うことを、常に自分に課すことも忘れないままに。

かといって、健康の為にひたすらガマン!ガンになりたくないからちょー節制!というのも、やっぱりどこか違うような。
きっとね、すとん、と落ち着くポイントがあるんだろうなあ。受け入れる、とか、自然体、という言葉がぴったりとくるような。
それはきっと、人それぞれで、みーんな違ってみんないい、みたいなこと。

健康というのは、身体と心のバランスがとれた状態を指すのであって。
それが不調であるというのは、どちらかが過ぎたり、どちらかが走っちゃってたりして、アンバランスな状態なのですよね。
なので、身体だけに注力してその不調を治そうというのは、その時は良くとも、根本的な治癒ではないのですから。
西洋医学でも代替医療であっても、「自分」が関わらなくてはどうしようもなく。
そういう意味では、私の病気はまだ完治してないというか、何年たっても、まだ学ぶことが残ってるのです。
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ああああ、もうとりとめなさすぎて支離滅裂。
これ以上傷が深くならないうちに、ここまでっ!


この、「短く書けない病」「思考の迷路に入り込む病」から学べることはなんなんでしょーか……
by senrufan | 2010-03-31 15:01


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