行為も思いも

明日日本に帰国する友人母子。別な友人の家で送別会。
実は私が友人と呼ぶのもおこがましい方々なのだけど。

知り合ってまだ2ヶ月足らずで、なんでもっと早く、と悔やんだけれど。
でも日本に帰った後も関係を続けられるかどうかは自分次第。当たり前のようだけど、それが今までの数年で思い知ったことなので。
続けられるとわかる別れは別れではなく、涙も感傷もなく。今度はいつ会えるかな、と楽しみにするばかり。

場所を提供してくれただけでなく、ご馳走になったお料理がとても美味だった彼女とは、まだまだ長いお付き合いを願うばかり。

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【読書】
b0059565_135125.jpg竹内久美子著「遺伝子が解く! 男の指のひみつ」を読む。以前に読んだ「女の唇のひみつ」同様、読者からの質問に動物行動学者の著者が答えた週刊文春の連載をまとめたもので、こちらが1巻目にあたる。
目次もすごいが表紙もすごい。オンラインで買って良かったなー。しかし相変わらずこの寄藤さんのイラストが秀逸なんだよなー。

タイトルにある通り、今回は男の指についての記述が頻出する。どうやらこの本を読む限り、男性の指にセクシーさを感じる女性は多いらしい。それに対して動物行動学の視点からの回答は何か。それは生殖器と指が共通のHox遺伝子によって作られているからだ------
こんな風に、いかにも日常的な質問群を、最新の免疫学・動物学によって大真面目に解明しようとする、その姿勢も内容も爆笑ものだ。同時にそれによっておお!と納得した時の、読者側の爽快感も大したものだ。
物事の直接的な理由ではなく、あくまで究極的な理由。そんなところに目を向けてみることが、煮詰まった場合の脱出法の一つかもしれないね。

竹内さんによると、メス(女)は何はさておきシンメトリーなオス(男)を求めるそうだ。つまり体がシンメトリー=左右対称であればあるほど、免疫力に優れている証であるからだって。
そういえば以前歯医者さんでやられた実験で、凡人の私は体のバランス力ゼロであることをさらけだしたのだけど、オリンピック級の選手になると全く揺らがないそうで。それだけボディコントロールに優れているということは、体がシンメトリーに近いのであろうな。と、この本を読んでしみじみとわかったよ。

こんな風に、人間も動物の一種なんだと思わせてくれる本は良い。人間の作ったものに囲まれて、その内部にあるものと交歓する毎日では、ともすると人間の意識という存在をついつい身体と切り離して考えがちになってしまう。
けれど実は人間も、まずは身体ありき。本能と身体欲求がベースにある動物なんだ。それを忘れて意識の世界だけで生きようとすることは、不可能どころか危険でもありうるよね。
かといって本能のままに生きようということではなく、身体の声に耳を傾けて、時々は人間の作ったもの以外のところに身体を置いてみようということなんだけど。

他にも面白いトピックが多々ありすぎ。
例えばなんで女の子は父親に似るケースが多いのか、とか。どうして姑は嫁をいじめるのか、とか。
童話では継母ばかりが悪者だけど、現実は継父に虐待されるケースの方が数十倍多いんだよ、とか。
ちなみに「親はなぜ子をガミガミ叱るのか」という疑問への究極的理由は、
「子に嫌われる為。子が『こんな家にいたくない、早く自由になりたい』と感じるようにさせ、早々と自立するよう、無意識に仕向けている為」
なんだそうです。えーと我が家ではこれを意識的に行っているような。



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【時事】

韓国教育者が自国史の教科書を批判、日本に関する記述を正すべきと主張

歴史教科書というと、日本ではついつい中国と韓国からの横槍が思い浮かぶが、とうとうあちらでもこのような声が出てきたようで。それが多数であればあるほど素直に喜ばしいと思う。日本の為ということではなく、それだけ韓国という国が変化してきたという証だと考えるからだ。

韓国といえば大変教育熱心なイメージがあるが、その指導内容の中で、どうやら日本は常に悪者扱いらしい。
実際過去に日本軍が行った行為を否定するわけではなく、戦後処理の稚拙さに関しても頭を下げたくなる思いがつのるが、それでも60年が経過して、あそこまで経済が発展して、尚且つまだ日本をそのような位置に置き、次世代にまで繋いでいこうとすることは、国として成熟した行為であるとは到底思えず。しかし国により価値を見出す箇所は異なるので、日本人の私が国外で指摘することには二の足を踏み。
実際こちらで出会った韓国・中国人に、面と向かって非難された知り合いは決して少なくない。

繰り返しになるが、人種偏見の基礎は親と周囲が作るものだ。ましてや教育の中心となる教科書にそのような記述があり、教師がそれを補強するとなれば、教育熱心な国であれば余計にその効果は大きいに違いなく。
しかしそれを変えようとする声が自国内から出たということが素晴しい兆候のように思えるのだが、果たして今後はどうなっていくだろうか。

ところで歴史を自国の視点でのみ捉えがちなのは、何も韓国に限ったことではない。ここ米国もその傾向は多分にある。
今日会った友人のお嬢さんは、ハイスクールの3年生にあたる。彼女によれば、こちらの高校で習う日本史は間違いだらけで、しかし先生はそれを堂々と教えてはばからないという。
真珠湾攻撃にしたって、米国は承知済みでわざと攻撃させたというのが日本では衆知になりつつあるが、周りの米国人でそのことを知ってる人は果たしてどれだけいるか。当然授業でそれが教えられる可能性も限りなく低い。
同時に、日本はどうだろうかと振り返る。科目が日本史と世界史と分けられていることはそういう意味で幸いだが、日本史に登場する他国との関わりが、どれだけフェアに書かれているのか。その記述を目にした時、自国史と違うと憤りを覚える他国人がいないと言えるか。

これもまた繰り返しになるが、歴史書が100%客観的であることはありえない。100人いれば100通りの歴史の解釈があって当然だ。
だからこそ、たまたま手に取った一冊に左右されることがないように。報道に接する姿勢と同じく、常に自分なりの距離をとることが絶対だと、自分には言い聞かせているのだけれど。
教育の現場こそ、教科書が絶対でないということを、物事を多面的に見るという姿勢を教師が教えられれば、一番望ましい。が、それにどれだけ勇気がいるかということも、想像に難くない。せめて自分の子に逐次伝えていくことが、家庭内での責任かと思う。

戦後に再開された日本の学校では、教科書のあちこちに墨を塗らされたそうだ。出来事以前と以後で、それだけ変わるのが歴史と教科書というものだ。
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by senrufan | 2006-07-31 13:02 | Trackback | Comments(0)
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