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ずっと貴方の子供です

「人はやりたいと思うこと以外、何一つできない」
   ----- ウィリアム・バロウス
       (アメリカ人、作家、1914年2月5生まれ)

* * * * *

【家庭内事情】

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父が他界いたしました。
享年80歳。
Stage4の末期がんが見つかり、余命2年と宣告されてから、約3年半の日々でした。

日本時間の2月1日、お医者様の往診を受けている最中に息を引き取りました。
私が日本に着く1日前のことでした。

以下、ひたすらに思いをくどく綴っていくだけになりますので、どうかお読みになることなく、ここで引き返してくださいますよう、お願い申し上げます。
ただ、一部の友人達への報告を兼ねて、心の整理の為の種を、ここに置いておくだけでございますので、どうぞその旨、ご了承くださいませ。




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父について、一体何から言葉にして良いものか。
何度か日記に書いているのですが、とにかく読書家で頭が良くて博識で、何を聞いても答えが返ってくる人で。
あの年代の中ではかなりの長身で、ずっとスリムな体型のまま。
彫りの深いハンサムな顔立ちで、ユーモアがあり、謙虚で人当たりが良いので、とにかく人に好かれる人でした。

でも、母と私から見た内実は。
実は不器用で、人が苦手で、一人でいるのが大好きで。
学生時代から映画狂で、昔はレーザーディスク、その後はDVDのコレクションを楽しみ、映画の原作や脚本、評論を原書で読み。
当然日本語でも読みまくり、海外のミステリーや冒険小説も読みまくり。

歴史関係の書物も大いに好み、特に第二次大戦の頃の日本とドイツ、中国については、私が生まれ変わっても追いつけない知識をもって、
なぜ日本がああいうことに至ったのか、今後海外諸国とどう付き合っていくべきかを考察するのが、最後のライフワークのようになっていた模様です。

こうやって書いてみると、改めて私の読書の傾向が、誰によって作られたのかは、一目瞭然でありますな。
父の本棚で知って、自分の愛読書になった本が、えーとあれとこれとそれと(両手の指じゃ足りない)


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父が生まれたのは満州なんですよ。
なので中国残留孤児の方々には、並々ならぬ同情を抱いていましたね。
小4で引き揚げてきた後の苦労話を、何度かユーモラスに話してくれました。

祖父のことはすごく尊敬していたようですが、祖母とはそうでなく、
家にいるより、外で忙しく働く方を選んだ母親には、全く構ってもらえない子供時代。
そのせいもあってか、人に頼る・甘えるということができず、というより、そのやり方を学ぶことができなかったんだろうなあ……
何でも自分で、一人でやる。
なまじ勉強も運動も何でもできたこともあり、それが当たり前と思って育ってきた人なので、
それがそのまま、自身の子育て下手に直結していたのは、言うまでもありません。

成長期の日本で、当時の花形の鉄鋼業界に身を置いた、激務の毎日。
営業だった為、数年ごとに転勤があり、私が引っ越した回数は7回。兄は小学校だけで5校行ってます。
そして、兄が高校、私が中学に進学してからは、単身赴任生活が12年。

父がすごい人だと何となくわかってはいても、どう接していいのかわからない。
それは、父もそうだったと思うんですよね。
「パパ苦手」な娘特有の気持ちがあった上、なかなか気軽な会話ができないので、子供なりに、あまり近寄らないようにしてましたね。
2人の子供の子育てを一手に引き受けていた母は、本当に大変だったと思います。


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私は良いとしても、兄との間は、最後まで親しいものになることはありませんでした。
一番父親の助けが欲しい思春期に、その手を差し伸べてもらえなかった兄。
私と違って人懐っこく、いつも友人に囲まれていた彼は、大学進学でも就職でも、父の助言を求めたようですが、彼の望むレベルではもらえなかったまま。
しみじみと、兄が気の毒でなりません。

父にとっては、そういうのも自分で全てやること、なんですよね。
自分は一人でやってきて、子供の進学など考えることもなかった両親の元で勉学に励み、奨学金を得て大学に進学し、当時の一流企業に入社した彼にとって、
親とは、尊敬の念はあっても、そういう対象にはならなかったので。
もし父と同じ性格の子供であれば、それも良かったかもしれませんが。
長男として同居を申し出て、二世帯で暮らしながらも、どうしても父の最後の壁を崩すことができなかった兄。

あいつとは合わない。
終始穏やかに接していても、心の中でそう割り切っていた父は、息子に対して生の感情を吐露することはなかったように思います。

私も、性格的に全く違うタイプの兄とは、なかなかツーカーの仲とはいかないので、今まで兄とそういう話をする機会はなかったのですが。
葬儀の後、ずっと寂しかった、親父にはずっと嫌われてると思ってた、とさりげなく言った兄の言葉に、別の涙が滲みました。


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それに対して、私のことはなぜか、父なりに買ってくれていたようで。
外見も中身も、どうしようもなく不出来な子供であったのに。
全然接していなかった父が、と本当に不思議なのですが、それは私にとって、力強い励みとなってくれました。

家族の中で一番の劣等生で、コンプレックスの塊だった私。
それに対しての言葉は一切なかったものの、大学受験の時、就職の時、そして結婚の時。
人生の節目節目で、ネガティブな心配を投げかけてくる母の横で、ただ一言、お前なら大丈夫、と言ってくれた父。
尊敬しながらも、普段ほとんど言葉を交わすことがなかっただけに、それがどれほど心に響いてくれたことか。
大げさではなく、その後の私の人生をずっと支えてくれることになった言葉でありました。

そして、私以上に父が愛情と期待をもって接してくれたのが、唯一の孫であったお嬢ですね。
帰国子女受験の際、実家にお世話になった10ヶ月間、生意気盛りの彼女と接して、腹立たしいことも多かったのではと思うのに。
誰よりも彼女の力を信じ、期待し、温かい目で見てくれた父でした。

最後の数日、ほぼ寝たきりになった父に、お嬢が、第一志望の大学院合格の知らせを伝えられたこと。
何よりの祖父孝行だったと、改めて彼女の努力に感謝ばかりです。

父が、最後の日の前日まで、その日の体重や食事、薬を飲んだ時間などを、ずっと記録していたノート。
お嬢が電話して知らせた日に、「お嬢、○○大学院合格、おめでとう!」と、赤ペンで書いてありました。


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ガンの宣告をされたところから、お医者様との話は、全て自分が仕切って、目をそむけることがなかったですね。
ホスピスやモルヒネのことも、遺産分けのことも、自分自身の葬儀に至るまで。
全部全部、父が自分で決めて、私達にはっきりと意思表示と指示を出してくれたんですね。

母が困ることのないように、貯蓄の名義変更や株の売買を行い、自分の葬儀代や遺産整理の為の費用などをきちんと用意し、もう声も出なくなっていた最後の日の前日まで、今年の確定申告について母に教えようとしていたそうです。
そういう家庭内の事務処理を一手に引き受けてくれていた父の部屋は、過去数年分の書類や記録が、きちんと分類されて収められていたので、
今この日記を書く前に、今年の実家の確定申告を、私でもなんとか作成することができたですよ。

葬儀については、すぐに火葬にして、その辺に埋めてくれ、というのが一番の希望だったのですけど、それはさすがにできませんからね。
参列者は母と兄夫婦、うちの旦那とお嬢、そして私だけ。
直葬で棺のみ、と言われたのを、せめてと花と遺影だけは許してもらったです。
棺に花を入れながら、これ、絶対文句言ってるよね、こんなことするな、ってへそ曲げてるよね、と話したものでした。

ほかの方々には、今年を最後とさせていただきます、という文面の年賀状を。
親友達には、あと1ヶ月ぐらいの命であることと、終わりがきても知らせることはしないので、ある日思い出したら、手でも合わせてくれ、という、ユーモアをにじませた手紙を送って、別れの挨拶として。
父という人を良く知っている方々からのお返事は、こらえきれない涙と温かさに溢れていましたが。
それに一切返信を送ることなく、ただ、もう別れは済ませたから、と言ったのみ。

父が去った後、その遺志のまま、我々からそういった方々に連絡を取ることはいたしませんでした。


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そして父は、文章を書くのも、すごく上手かったんですよ。
普段しゃべってる時もそうなんですが、頻繁にユーモアやダジャレを挟むので、とにかく楽しいのと、
そのユーモアが、歴史や映画の知識が元になってたりするので、読んでてわくわくしちゃうんですよね。
滅多になかったですが、父からもらうメールがめちゃくちゃ面白かったので、私がそのたびに喜んでみせていたら、段々その気になったのか、
自分が友人に書いた手紙や旅行記などを、わざわざ読ませてくれるようになり。
ブログでもやりなよ、と随分勧めたのですけど、新しいことには抵抗感を覚える頑固者ゆえ、それはとうとう叶いませんでしたね。
なにせ、そういうことを書くのも、何十年か前の文豪mini5をずっと使ってましたからねえ……(遠い目)

それでもある日、自分史的なものを書いてみようと思う、と言ってくれた時、思わず唱えた万歳三唱。
しばらく経って読ませてくれた下書きは、家族についてはほんの3ページで(……)、あとは映画についてのエッセイや、親友達との友情に溢れた日々の記録など。
これはこのまま自費出版して、家族それぞれの手元に置いておきたい、とすごく楽しみにしていたのです。

が、人には大らかでありながら、自分については密かに完璧主義だった父は、何度も何度も書き直しを重ね、いつしかそれに疲れて、完成させることなく終えてしまったので。
そのままでもいいから私にちょうだい、私は大好きだからどうか、と何度も頼んだのですけど、とうとう渡してくれることはなかったのを、ずっと残念に思っていたのですね。

父が亡くなった後の部屋で、フロッピーを沢山見つけたので、文豪mini5を立ち上げて印刷しようとしたのですが、その為のインクリボンが見つからず(ちくしょー)、
いっそ画面を見ながら、手でタイプしようかと思っていたのですが。
諦めずにファイル類を漁っていたら、その自分史や旅行記を印刷してしまってあるファイルケースを見つけたのですよ。

その時、母がそばにいたにも関わらず、ファイルを抱えて大泣きしてしまったです。
私が何より欲しかったのは、父が何を考え、何に喜び、どう感じていたかの証になってくれるもの。
私にとっては父が書いた文章こそ、どんな宝石より貴重な遺産です。


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父がいよいよ危なくなって、翌日の飛行機をとったものの、それでも間に合わなかったこと。
母から電話で訃報を聞いて、自分が発狂したかと思うほど泣いて喚いて、文字通り床を転げ回っても、
なんでもっと早く駆けつけなかったのかという後悔は、到底消えるものではありませんでした。

母から、私がいなくなって寂しがっていたこと、何度も往復させてしまうので、飛行機代を出してやってくれ、と言っていたことなどを聞いた後では尚更に。
幾らかかっても、どれだけ経由しようとも、あと数時間早く着いていたかった。
せめて最後に、大好きだと、貴方の娘に生まれて本当に幸せだったと、カケラだけでも伝えられたなら。

一番辛い時に、母を一人にさせてしまったことも含め、この後悔を一生抱えて生きていこう、と思ってます。

お嬢が大学に入学した年に末期がんが見つかり、お嬢の学生生活と共に送った闘病生活。
せめて彼女の卒業を見届けて欲しかった、と心から残念でなりません。


痛みも苦しみも自分のものとして、我々に愚痴ることがなかった父。
それでも、本も新聞もほとんど読む体力がなくなって、こんな状態なら生きている意味がない、とぽつりと言った言葉に、思わず溢れた涙を隠す為に顔をそむけてしまったこと。
母に負担をかけたくないと、最後は病院での死を希望しておりましたが、旅立ちは自宅のベッドからでした。
きっと次の世界では、あっという間にあらゆる本が読めてしまって、あっという間に私と再会してくれるのでは、と思ったり。

見ていないようで私を見て、信じていてくれた父が、今では空から見ているのかと思うと、改めて背筋が伸びる思いです。
次に会える時にほめてもらえるように、恥ずかしくない生き方をしなければなりません。
きっと、あちらの時間ではすぐ、ですよね。

3月末まで行ったり来たりして、お嬢と交代しながら、母のそばにいる予定です。
今日は役所で、異動届や年金手続きなどをやって参りました。
毎日、父のことをあれこれ話しながら、2人で繭の中にいるように過ごしてます。

母の今後を思うと心配でたまらず、一体どうしたら良いものか、途方に暮れてしまいますが。
父の病気がわかった頃から支えてくれた、同様にお父様を亡くした友人達に、また色々アドバイスをもらえたら、と思ってます。

一人じゃない、という支えと喜びを。
どうすれば、離れて暮らす母に与えていけるのか。
父の最期に間に合わなかった自分の、これからの大きな課題です。


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私達が名画と呼ぶ時代の映画が一番好きだった父ですが、一番好きだったのは、ジョン・フォード監督の一連の西部劇。
そのお気に入りの舞台となったモニュメントバレーには、ジョン・フォード・ポイントと呼ばれる場所があり、父の永遠の憧れの場所でした。
何度も、一緒に行こうと誘っていたのに、とうとう実現することなく終わってしまったこと。
何でも出来た父でしたが、どこかで仄かな運の悪さを、ずっと抱えていた人でした。

今はぼんやりと、父が書いたものを、どこかのブログに一つずつアップして、母やお嬢が読めるようにしようかな、なんて考えております。
そうして私自身も、父が書いたものから父を知る旅を、ひっそりと行っていこうと思ってます。


貴方の娘でいられたこと。
私の父でいてくれたこと。
私の人生において、一番の幸運の一つです。

これからもいっぱい話しかけるから、どうか聞いててね。
また会える日を、心から楽しみにしながら、これからも生きていきますね。


ずっとありがとう、お父さん。
by senrufan | 2017-02-05 08:58


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