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貴方が貴方である意味を

「あなたが他人にしてあげられる最も偉大なことは、
冨を分け与えることではなく、その人の中にある素晴らしさを示してあげることなのです」
   ----- ベンジャミン・ディズレーリ
       (イギリス人、政治家、1804年12月21日生まれ)


2014年12月21日は、こちらのカレンダー上では、Winter Solsticeの日。
日本では、翌22日が冬至でしたね。

今年の冬至は「朔旦冬至(さくたんとうじ)」と言って、新月と冬至が重なるという、19年に一度の日だったそうですよ。
今年はこの手の、「○○年に一度」という天文ショーが多かったような印象が。

今年は19年に一度の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」

2014年12月22日は19年に1度の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」

思えば今年は、月の運行と旧暦を記したカレンダー作りから始まったのでありました。
今年も作ろうと思っていたのですが、いや、ほんとーに思っていたんですけど(二度言う)、
こんなカレンダー販売のお知らせをいただいたので、ちょうど日本に出張中の旦那に持ち帰りを頼むべく、購入いたしました。
クリスマスプレゼント的に、25日に届く予定でございます。つまり、彼の帰宅。(どっちが大事なんだ)

なぜか昔から、冬至の日が好きな私。
始まりの日とか、そういう理屈は置いといて、ただ、これから日が長くなっていくんだ、ということが嬉しくて。
深刻な雨不足のカリフォルニアで、ここ最近の雨続きにとても感謝しつつ、
それでもやっぱり陽の光と、まだ明るい夕方が、子供の頃からずっと好きなので。
大好きなホリディシーズン中の冬至の日は、一年でも大切な一日と感じてしまうのです。

* * * * *

【雑事】

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2009年に書いたことが頭にあって、一昨年昨年と、冬至の時に、子育て関連ぐだぐだをつぶやいたことがございます。
なんとなく自分的恒例として、今年は何を書こうかなー、と思っていた頃に、こういう記事を読みました。

自分に価値があると思わない子どもたち~「自尊感情」とは何か~

こちらに関連した思いを、またごくごく一部を切り取った形で、ぐだぐだと書いていくテスト。
挟んでいく画像は、先日友人が連れて行ってくれた、サンフランシスコのHyatt Hotelで撮った写真です。
いつものように、これはあくまで自分の整理の為のうだうだなので、
基本、この先には進まれないことを、強くお勧めいたします。




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(以下、アメリカと日本、なんて分類できるわけでは全くないのを、重々承知で書きます。
いやほんと、アメリカって何億の人がいるの、ってなことは、とっても良くわかってますので、どうかお許しを)


ずっと前にお嬢が、自分の周囲にいる日本の子は、プライドは高いのに、自尊心が低い子が多い、と言ったことがございます。
大変おバカな母ちゃんは、プライドと自尊心は、英語では別物だ、ということを、この時にようやく知ったのでございます。

自分について考える時に、努力もしてないくせして、プライドばっか高いイヤな奴、と思います。
人のことは傷つけるくせして、自分は打たれ弱いという情けなさを感じては、落ち込みます。

こういう自覚があるので、ここ数年で目立って増えてきたヘイトや、ネット上の攻撃などについて、
個人的に、「プライドと自尊心」という視点から考えることが多く。
故に上記記事は、知識としてその解説をいただいたという感じで、ありがたく拝読いたしました。


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例えば何か、自分が良しと思ってやっていることについて、批判意見を述べたブログを読んだ時。
そこでカッチーン、ときて、罵倒コメントを残す人がいらっしゃいますよね。
そういうコメントを目にすると、ああ、この人は私と同じく、自尊心が低くて、プライドが高い人なのかもしれないな、と思います。

それは、自分自身を掘り下げてみた時に、とても思い当たることがあるからで。
自分が選んだことに、自分がやっていることに自信があれば、端から批判を受けても、気にしないでいられる、と思うんですよ。
それが、実は自分の選択に自信がなくて、もしくは、どこかに罪悪感や不安があった時。
その人は、自分なりの意見を述べただけであるのに、また、私個人への批判でも何でもないのに、
怒りと悔しさのあまり、なんとか相手が間違っていると思い知らせたい、と躍起になってしまったり。

つまり、自分が正しいのだ、と思いたい、んですよね。
君が正しいよ、君が正義だよ、と誰かに認めてもらわないと辛い、んですよね。

それは、自分が選んだことに対して、実は自信がないから。
誰かに比べて、損をしてないかどうかが、気になってしまうから。

自分は自分、という言葉は、それこそ何億回と言われてきたと思うんですが、
それがしっかりと身についている考えならば、実際に目の前で反論されたわけでもないことに対して、そこまでの怒りを覚える必要がないのであって。
人には人の価値観がある、ということが、きちんと身の内に確立されていれば、
ああ、そういう見方もあるよなあ、と、むしろ学ぶこともできるはず、なのに。

自分がやってきたことを間違ってると思ってしまったら、そこまでかけてきた時間や労力が無駄になってしまって、あまりにも悲しいから。
そこからやり直す気力がない自分を棚に上げて、人のせいにしてしまう。
人のせいにしていれば、自分が正しいと思っていられて自信が持てるし、自分が変わる必要もなくて楽だから。

全部ぜんぶ、私の中にある、醜くてどうしようもない、でも目をそらすことができない「気持ち」。
なので、ネット炎上コメを見たり、たとえば電車内のベビーカー論争などを目にしたりするたび、こういうことなのかなあ、と思ってしまうのです。


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リンクさせていただいた記事から考えれば、結局この”自信のなさ”というのは、
「基本的自尊感情」が乏しいから。
だから、「社会的自尊感情」がより多く必要となり、他からの賞賛や承認を強く求め、
その不安定さが故に、自分とは違う意見に過剰に反応してしまう、ということなのだと思います。

自分はこのままの自分で愛されている、という「基本的自尊感情」がしっかりしていれば、
その上に後天的に積み上げられる、自分は役に立つ・価値があるという「社会的自尊感情」もまた、バランス良く保持できるわけで。
それが、土台が不安定でぐらぐらしているところに、どれだけ上に箱を積もうとしても、困難で。
倒れそうで不安定だから、もっと上に積んでいかなきゃ、と感じる焦燥感。

それを他人にぶつけるというのは、自分の中ではどれだけ正当性をぶち上げようとも、ただの八つ当たり。
自分は自分、という大元が揺ぎないものであればあるほど、その必要はないことなので。
そう考えるに、ますます子供時代に、親が与えるべきものは、
ありのままのその子を愛してる、ということを、どれだけしっかりと伝えてあげられるか、
ということに尽きるのではないか、とさえ思います。

私自身が、どれほどお嬢に、そういうことができなかったかということと、自分と親との関係については、以前に日記で書きました。
彼女の思春期を通じて、自分のあらゆる欠点も、恥ずかしい過去も、全てひっくるめて自分なのだ、という”受け入れ”が、ようやく少しずつできるようになってきて。
お嬢に、ありがとう、ごめんなさい、を素直に言えるようになった、という、これまた赤っ恥を、
以下のように書いたようですよ。(他人事かよ)

 あの日、あの時、繋いだ手 (5) (6) (7)


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冒頭に戻りますが、日本の子供の「基本的自尊心」の低さについて考えるに、
自分が育ってきた過程や、自分がお嬢を育てた過程を、「日本的」と称するならば、全く不思議はないことで。
それについての後悔も、以前に書いていましたね……
この毒親は、どんだけ反省しても、し足りないようですね……

アメリカと日本の思春期について、お嬢が感じたことを、あくまで一例と承知の上で、それをベースに考えてみれば、
思春期の”自分探し”を経て、自尊感情を高めていくアメリカの子と、
”他人からの評価”に、より敏感になっていかざるをえない日本の子と。
どちらが良い・悪いということではなく、それは当然、違う方向に進んでいくだろう、と思うことは、
少なくとも間違いではないでしょう。
まあ、ぶっちゃけ、アメリカと日本なんて比較はなく、そういう育ち方をしたAとB、という事例、
なんですけど、ねー。

ですが前述したように、人から認められないと、自分の価値が実感できない、と感じること。
また、自分がやってきたことを否定されると、やり直しがきかないと感じる気持ちが強ければ強いほど、恐怖もあって反発してしまうこと。
これは、日本で教育を受けてきた自分だからこそ、とてもわかりやすい図式であるように思います。

諸事情により、すっかり止まってしまっているお嬢の帰国子女受験体験シリーズですが、
あの頃、入学時から学部を決めなければならないことや、専攻や教授の質ではなく、大学名にこだわった学校選びなどを見るにつけ、
この「やり直しがきかない」感の強さは、そういうところからもくるんだろうなあ、と感じたことを思い出しました。


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以前、先輩ママさんと、昔の、例えば中学時代や高校時代にさかのぼって、人生をやり直したいか、と聞かれたら、どう思う?という話をしたことがあるんですよ。
先輩ママさんの周囲では、そうしたい、学生時代に戻りたい、という方が多かったそうなんですが、
先輩も私も、どの時点にしろ、絶対戻りたくないんですね。

それはもう、恥だらけ・後悔だらけの人生ですから、戻って、もっとマシな選択ができるなら、
もっと人を傷つけずにいけたなら、どれほど良かったか、とは思いますけれど。
それでも、そんな羞恥と後悔と涙をぜーーんぶひっくるめて、今の自分があるんだ、という気持ちを捨てきれないのです。

だって、人生をやり直してしまったら、今までに会った大好きな人達や、素敵な出来事に遭えなかったかもしれなくて。
父も母も、旦那も、全く違う人だったかもしれなくて。
何よりも、やり直すことで、今の自分達の子供が、違う子になってしまったら。
それが一番イヤだなあ、ということで、意見が一致したのでございます。

欠点だらけの母にふさわしく、欠点だらけのお嬢ですが、それでも、自分にとっての最高の宝物。
むしろ、母の妨害工作(……)にもめげず、ここまで育ってくれてありがたいなー、と感謝するばかりでございます。

冬至が、新しい時の始まりを象徴している日、とするならば。
クリスマスが近づいて、冬至という日を迎えるたび、自分のやってきたことに対して、改めてぐだぐだ考えてしまうのは、そういうことなのかもしれません。

貴方が、貴方であることのありがたさ。そのままの貴方と出遭えた幸福を。
触れ合うたびに、温かく伝えることができますよう。

皆様もどうぞ、素敵なクリスマスをお過ごしくださいませ。

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by senrufan | 2014-12-21 14:27


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