小さな足が、海を越え (5)

「われわれは、長く生きるほどに、何とわずかなことしか知らないのか、と教えられる。
成長して年を重ねるということは面白い冒険であり、驚きにみちている」
   ----- エリク・H・エリクソン
       (ドイツ→アメリカ人、精神分析学者、1902年6月16日生まれ)


料理ブログ読書ブログ、月イチ更新しております。


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コーヒー人気のサンフランシスコで、ベスト・ブレンドコーヒーの店に選ばれたこともある、Philz Coffee
南に下って、こちらこちらに店舗を開いてくれましたが、更に南の市にも、先日オープン。
早速、友達2人と行ってきたですよ。

なんせドリップ式なので、どうしても行列が長くなるのは、こちらの店の特徴というか。
でも、それもまた楽し、なのが、コーヒーカフェ。
待っている間に、のんびりメニューを眺めて、今日は何にしようかと考えたり、前後の人達と短い会話を交わしたり。

こういう、「待ち」の時間を楽しむことも、カリフォルニアに来てから学んだなあ、と思います。
日本から来てしばらくは、スーパーなどの列に、よくイライラしていたんですよ、お恥ずかしいことに。
お客さんや同僚と話しながらののんびりレジや、キャッシャーにクレームをつけて、平気で時間をかけるお客さん。
ちっとは後ろに並んでる人達への気遣いはないんか、とむかむかしていたものでした。

それが今では、日本に行った時、礼儀正しくテキパキ仕事をこなしてくださるレジの人に、
え、そんな急がなくても、なんかこう、会話とかしませんか、なんて考えるようになっちゃって。

どちらがどう良い、という話ではなく、いろんなやり方と価値観があるんだよ、って。
言葉にすれば、それだけのことなのですけど、それを本当に理解しているかどうかで、随分と感情も行動も変わってくる、ということも、学んだことの一つです。


Philz Coffee
20686 Stevens Creek Blvd
Cupertino, CA 95014

* * * * *

【学校】

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さて、ぐだぐだシリーズの続きは、そのPhilz Coffeeの写真と共にお送りいたします、なんつって。
ああ、これでまたブログのネタが減る……(え?)

今回は、お嬢の目から見た日本の相対評価について、少しだけ。
でもってまたもや、少しだけ、にならない気がひしひしと。(負け犬宣言)




これはベイエリアだけでなく、アメリカでは、と言ってしまっても良いかと思いますが、学校の成績は相対評価ではなく、絶対評価式。
ちょっと例外もありますが、A・B・C・D・Fの5段階になっていて、ざっくり、
A:90%以上
B:80%以上~90%未満
C:70%以上~80%未満
D:60%以上~70%未満
F:落第
という分け方なのですね。
日本でも、大学ではこうだったりしますよね。

米国ではこれに加えて、カーブという仕組みがあります。これは、テスト単位で行われる、のかな。
とあるテスト結果を、上記5段階で計算すると、偏りが顕著であるケースも勿論出てくるわけで。
たとえば学校側が、Aは生徒の10%、Bは生徒の20%に与えたい、という目安が元々あるのに対し、実態はAが5%、Bが10%であった、といった場合には、各生徒の点数に数点プラスして、その割合になるように調整する仕組み、なんですね。
なので、何が何でも「絶対評価」というわけではない側面もあるようです。

こういうシステムの中で育ったお嬢は、日本の予備校に通い始めてから触れた「偏差値」「相対評価」「順位付け」に、最初はかなりの違和感を覚えたそうですよ。


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ほんとに、相対評価ってなに?
人と比べて、テストの点が上か下かだけで、その人を計るなんて。
なんで人と比べなきゃいけないのか、わからない。
自分が目標点をとれるかどうかなのに。

全国ランキングとかならまだわかるけど、たかだか数十人のクラスのランキングとか、そんなの、たまたまいるクラスのレベルによるものじゃん。
そんな、周囲のちょっとしたことで変化するもので計られて、嬉しいわけがない。

第一、皆が良く言う”普通”ってこと自体、おかしいよ。
そんなの、どういう集団にいて、どういう背景を持っているかによることでしょ。

相対評価って、敵が目の前にある感じ、と言えばいいのかな。
つまり、自分じゃない誰かが敵で、その敵より上にいけば良い、というイメージを持ちやすくなってしまうよね。
絶対評価だと、自分がそのレベルに到達することが目標になるわけだから、シンプルに自分で頑張ろう、と思うのに。

怖いのは、敵より上に、じゃなくて、その敵を下に落とせば自分が上がれる、上の人を蹴落とせばいい、という考えに至りやすいこと。
だから、「皆で渡れば怖くない」と考えるようになっちゃう。

相対評価だって、良い点が沢山あるのはわかるよ。
それが健全な切磋琢磨であれば問題ないし、ライバル意識が芽生えやすいのも、それが真っ直ぐであるうちはいいんだよ。

だけど、たとえば私がテストでたまたま一番をとった時、先生が皆に向かって、
「おっしゃ、次はアイツを蹴り落とせ」とハッパをかけたりとか、
某国立クラスで、他の子の志望校を変えさせてライバルを減らそうと、あれこれ陰険にやりあってたとか。

ライバルがいることで発奮する子もいるし、そういうやり方があっている子達も沢山いると思う。
だから否定はしないけど、ああいう場所にいると、ベストと思うことはとてもできないよね。


彼女からこういう意見を聞くたび、すみませんすみません、と謝りたくなってしまう、小心者のワタクシです……
いやもう、素直な感想をありがとう。(ズキズキ)

前回にもちらっと書きましたが、日本の学校における相対評価は、「公平さ」に強くこだわったシステムなんですよね。
それで育った私にとっては、確かに欠点や弊害は目につくにせよ、絶対評価より救いがあるような気も捨てきれないのですけれど。
それでも、お嬢が上のようなことを言うようになったのは、そうではない方式で育ったから、ということも大きいのだ、と思えば、ありがたかったなあ、と感じるばかりです。


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やはり前回、日本の帰国子女入試で、あまりにSATの点数重視なことにお嬢が驚いた、ということを書きました。
もちろん大学によりますが、一次試験を書類選考として、SATが規定点数以下であった子は、一次不合格とした大学もあるんですよ。
その中で、UCLAに受かったものの、日本の大学を志望した子が、国立の一次で切られたりもしたそうです。

この、日本のセンター試験を受けずに受験する帰国子女の子達を、全米統一模試であるSATの点数をもって評価しよう、というのは、一般生も帰国生もなるべく公平に扱おう、という配慮と視点、だとは思います。
ですが、すでに書いてますが、お嬢やこちらでの仲間達に言わせれば、SATは米国大学受験において、それほど大きなウェイトを占めるものではなくなってきているそうなんですね。

SATって、ある意味、そしてある範囲までは、時間とお金を持っていたかどうかを表すもので。
つまり、SAT対策の塾や先生について、テクニックを学んだかどうか、とか。あ、あと、運も。
だから絶対的なものじゃない、という感覚があるので、それだけで評価しようということが理解できないのだそうです。
勿論、頑張った、ということに意味はあるけれど、人を評価するのに、SATみたいな単純なこと一つだけで切ってしまっていいのか、という疑問を持っているのですね。

彼女達は、SATというのは、頭の良さを計る確実なツールではない、と言います。
心理学の実験でもあるように、テストとは、何もやらずに受けて、初めて意味があるそうで。勉強した時点で、その意味は半減するそうです。
「努力」は、頭の良さとはまた別の才能と考える、ということでしょうかね。

それはともかく、要は、もっともっと、その人で見るべきところがあるだろう、と。
そこが、エッセイや推薦状、課外活動、面接など、様々な角度から自分をアピールできる、また、しなければならないアメリカで育ってきた彼女達にとって、譲れない意見であるように感じます。

現に、お嬢の周囲の子達の大学合格結果は、一つの大学において、SATの点が高い子が落ちて、その子より低い点だった子が受かった、ということも多々あったのでございます。


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ただ、これに関しては、賛否両論色々かと。
形にならないもので選抜することによって、受験生側が理由が納得できないのがかわいそう、とか、
だからアメリカの高校生達は、マルチタスクに追われて疲弊している、とか。
シンプルに、「努力」を点数で計れる日本の相対評価も、見るべき点は確かにある、と思います。
もしくは、せめて大学受験までは、努力がフェアに評価される世界にいさせてやりたい、という気持ちもあるのかもしれません。

ですが、お嬢の言ったことの中で、気になったものがありまして。
それは、予備校での叱り方、といいますか。
勿論これは、全部が全部の話ではない、ということを前提にしたものですけれど。

予備校の先生の叱り方が、生徒側にとって、「全てを否定される」ように受け取れてしまう時が多い、と感じたんだそうです。
それは、偏差値や成績という面だけにおいて生徒を評価している先生と、そういう点だけで先生と接している生徒達だから。
なので、成績をけなされること、イコール、その子の全否定、と繋がってしまうのでは、と思われます。

打たれ弱い子が多い、というのもまた、お嬢の驚きの一つだったのですが、
そうやって周囲から、その一点のみを重視される圧力を感じていれば、そこをとがめられた時、自分を全て否定されてしまうように思えてしまうのも、あながち無理ではないでしょう。
ましてや、それが繰り返されていけば、尚更に。

みんな、それぞれにいろんなものを持っていて、そういうもの全部をひっくるめて、その子が出来上がっていて。
なのに、一部の先生達の叱り方に接していると、そういったものが全て切り捨てられて、ひたすら成績という一点だけで、その子の全人格を否定しているように感じられてしまうんだよね。

お嬢の言ったことは、ずっと前から言われていて、多くの人達が口にして批判してきたことが、ほとんどです。
それが、今まで日本を知らなかった彼女が、わずかな滞在期間で、まっさらな目で日本の教育現場を見た時、最も強く感じずにいられなかった事柄が、やはりこういうことだった、というのは、
その中で育ってきた私に、非常に複雑な思いを抱かせたのでありました。
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by senrufan | 2013-06-16 10:30 | Trackback | Comments(6)
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Commented by ノンノン at 2013-06-19 00:42 x
あは、レジの話、わかります。例えば2つのスーパーがあって、品揃えは同じような感じだと、キャッシャーの方がフレンドリーに話しかけるほうに行こうかなと思ったりして(笑)。

あと、こちらのキャッシャーの方に感心することがもうひとつあって。レジに並んだり、カウンターで注文したりするときに、先に並んでいるお客さんに気づかないということがあると思うんですが。(ちなみに私は気づかれないことがよくあります。多分、アメリカ人の中に混じると背が低くて見えないんだと思う 笑)。そういうときに「あのお客さんのほうが先ですから」ときちんと順序を守ってくれるところ。実は私も一度気づかずに先に並んでしまったことがあるのですが、キャッシャーの方が教えてくれて、後でそのお客さんに「ごめんなさい、気づかなかったので」と謝ったことがあります。「いいんですよ。気にしないで」と笑って言ってくださいましたが、キャッシャーの方に教えていただいてよかったなぁと思いました。じゃなかったら、すごく失礼なことをしてしまっていたと思うので。
Commented by Miyuki at 2013-06-19 10:31 x
*ノンノンさん
それそれ! 馴染みのスーパーだと、並びたい人が決まってたり(笑)

あー、そおゆうのも何回か遭遇してます。そう、良いキャッシャーさんは視野も広いなあ、と思ったりしますね~。逆にキャッシャーさんの方が間違えて、お客さんが「彼女の方が先よ」と言ってくれたり。小さなことでも、そういうのって嬉しいですよね♪
Commented by ノンノン at 2013-06-20 00:40 x
相対評価。
私は性格的にどちらかというと内向的な方なので、内向的な人の一般的な特徴として、人と争うとか比較するという環境が励みにならない(むしろ逆効果だったりする)らしいのです。
そういわれてみれば、いまだに、静か~にこつこつやるほうが好き(笑)。
だからかも知れないんですが、相対評価、嫌でした~。
Commented by Miyuki at 2013-06-20 12:02 x
*ノンノンさん
ご自分の芯をしっかり保てるノンノンさん、素敵です~~!(惚れ直し)
私はそれを望みつつも、「みんなだって悪い点だったもん!」と言えるほうが楽、ということも自覚していたヤツでした。最低……
Commented by ねこ at 2013-07-20 11:17 x
ご不満を多々お持ちなのになぜアメリカの大学に進学されなかったのですか? お母様に不満を述べるだけでなく特待生ならアメリカ教育の良い点を日本に伝えて変えてみては?
Commented by Miyuki at 2013-07-22 11:11 x
*ねこさん
うわあ、せっかくコメントをいただいておりましたのに、気づかないままレスが遅れてしまって申し訳ございません!!(土下座)
まだきちんと書いていない私が悪いのですが、娘は日本の学校に全くいってないので、日本を知りたい一心で日本の大学を選びました。彼女が抱く不満も喜びも、全て将来の選択への材料となる貴重な経験ですので、私としては大いに周囲に目を開いて、沢山のことを体験してほしいと願っております。アメリカの大学に進んだところで、多かれ少なかれ不満も失望もあることで、それは現在彼女が日本に思うことと本質的な価値は変わらない、と思います。むしろ私に伝えるようと言葉にするにあたって、彼女自身も深く考えることになるので、これからもどんどん言ってほしいと考えているのでございます。


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