「正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」
----- 宮沢賢治
(日本人、詩人、1896年8月27日生まれ)
Sheena Iyengar: The art of choosing
日本でも少しずつメジャーになりつつある、
TED(Conference)。
できるだけ見たいと思ってるのですが、全然果たせておりません。はあ。
しかし、↑のSheenaさんの講演は、本当に面白うございました。
「選ぶ」ということを一つのキーワードとして考えている自分にとって、というのは勿論ですが、
最初の、日本での「緑茶オーダー体験」はどぅーですか。
海外在住の方が日本に行った時、一度は体験される類のものではないでしょうか。
コーヒーのカスタマイズができなかったことを思い出して、ちょっとにんまりしたりして。
この講演については、ものすごく色々思うことがあって、一度きちんと書いてみたかったのですが、もう諦め……
とりあえず日本とは、すごく良い国で、すごく良い人達で、いろんな意味で特別な。
そんな風に思ってます、ということで。
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【アクティビティ】
6月の日本滞在記も、これで最後です。
そして来週は、また日本に行ってきます……よし、間に合った。(激違)
今まで何回も里帰りしておりますが、実は今回初めて、美術展に行ってまいりました。
国立新美術館で開催されていた、
大エルミタージュ美術館展でございます。
看板や広告には「エルミタージュ展」となっているのに、パンフレットには「大エルミタージュ展」となっている。
果たして、その真相はいかに!? (ええ、気分です)
結論から言えば、有名どころの小品を集めた感のある展覧会でございました。
あ、これはあくまで、お嬢と私の個人好みに基づいての話。
なので、感激こそなかったものの、さらさらと鑑賞できて、居心地の良い空間でありましたよ。
国立新美術館は初めての訪問だったのですけど、いいですねえ。
地下鉄の駅の出口に直結、という利便性が、雨の日だったので、特にありがたく。
中に入れば、高い天井と広々空間、モダンな造りが美しく。
展覧会の後の、カフェでのまったりタイムも良かったなあ。
いつも通り、展示会の概要、あんど、個人的に印象に残った絵画名など。
展示名の日本語表記に、なぜかカンドーなど。
Ⅰ 16世紀 ルネサンス:人間の世紀
バルトロメオ・スケドーニ 「風景の中のクピド」
ジュリオ・カンピ 「男の肖像」
Ⅱ 17世紀 バロック:黄金の世紀
ペーテル・パウル・ルーベンス 「虹のある風景」
ヤン・ファン・ケッセル(1世) 「ウルカヌスの鍛冶場を訪ねるウェヌス」
ダニエル・ファン・ヘイル 「冬景色」
アブラハム・ブルーマールト 「トビアスと天使のいる風景」
ヤン・ステーン 「結婚の契約」
Ⅲ 18世紀 ロココと新古典派:革命の世紀
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ 「パレルモ港の入り口、月夜」
ユベール・ロベール 「古代ローマの公衆浴場跡」
ジョージ・ロムニー 「ハリエット・グリーア夫人の肖像」
Ⅳ 19世紀 ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀
ウジェーヌ・ドラクロワ 「馬に鞍をおくアラブ人」
レオン・ボナ 「アカバの族長たち(アラビア・ペトラエア)」
ジョゼフ・ベイル 「少年料理人」
Ⅴ 20世紀 マティスとその周辺:アヴァンギャルドの世紀
アンリ・マティス 「赤い部屋(赤のハーモニー)」
パブロ・ピカソ 「マンドリンを弾く女」
ウル・デュフィ 「ドーヴィル港のヨット」
どーでもいいことなんですけど、なぜ”キューピッド”じゃなくて、”クピド”なの。
言語の進化ですか、もしくは、美術界の高尚な言い回しですか。
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さて、今回の展覧会ですが、実は絵画以上に、強く印象に残った思い出が。
しかも、入場した直後の出来事だったんですけどね。
入り口をくぐってから、気に入った絵画をメモしようと、ボールペンと手帳を取り出したのですが。
警備員の若いお兄さんが、瞬速で飛んでこられて、おっしゃったんですよ。
「あのー、お客様、大変申し訳ありませんが、こちらをお使いいただけませんでしょうか」
差し出されたのは、先端に鉛筆の芯がついた、しおりのような
アレ。
目を点にしながら、お兄さんに、
「ええと、このボールペン、別に武器でも何でもないんですけど」
と言ったんですが、
「いえ、そういうわけではなく、できましたらお願いしたいんですが」
とおっしゃいます。
「はあ、別に構いませんが、理由が全然わからないので、教えていただけますか?」
「いやあ、万が一ということがありますので、ええ、無理は申しませんが、できましたらどうか……」
「万が一、って、どういう場合なんでしょう? あの、別に嫌なわけじゃなくて、勿論そちらを使わせていただきますが、ただその理由を知りたいだけなんですけど」
「ええ、まあ、そのう、色々とございまして……ご迷惑でなければ、どうかご協力をお願いしたいのですが」
なんで、こんなに、言葉が、通じないの 。
私の日本語、間違ってる?と、大いに感じた、アイデンティティ・クライシス。
お嬢と散々首をひねりましたが、どうしても理由がわからなかった、この出来事。
この後に会った友人に話したら、それは恐らく、
万一、絵などに落書きされた場合、
ボールペンより鉛筆の方が、被害が少ないからではないか、
と解析してくれたのですよ。
だったら、落書きするな、とゆってくれればいいんじゃ、
でも、そんなことを言ったり、疑う素振りを見せれば、侮辱ととられかねないし、と考えたんだろうなあ、とか。
まあ、とにかく、どっと疲れた出来事でございました。
そして日本に行くたび、強く感じるのが、この類のことであったりします。
冒頭のSheenaさんの体験は、こちら在住の友人間では、「あるあるーっ!」ってなものなんですよこれが。
異国に住んで、
「言葉にしなければわからない」ということを、何度も何度も、繰り返し思い知らされておりますが。
それは日本であっても、家族や友人、他人様に対しても、実は同様のことが言えるのですよね。
私の常識は、誰かの非常識。
寄って立つ前提条件は、大なり小なり異なるのが当然ですから、やっぱり言葉を並べるのが筋かと思います。
が、それがまた人によって、その補足を余計だと思ったり、足りないと眉をしかめたり。
そういう意味では、少なくとも同国人であるということは、初期段階を飛ばせて楽、というのが、日本の人といたい理由の一つであるものの。
すみませんが、申し訳ありませんが、恐縮ですが。
いっぱい、いっぱい、この枕詞を使うわりに、実際の「謝罪」を意味しなかったり。
一時期、日本語チューターをやっていた時は、この手の日本語&日本文化を説明するのが、一番難しかったんですよね。
直接ではない、間接の良さ。遠回しな言葉の柔らかさ。
それは良くわかっているつもりでありますけれど、同時に、質問に対して、的確に答えを返す重要性も、決して忘れてはいけない、と思います。
申し訳ありませんが、と言いつつ、要望は拒絶する。
その矛盾を、好ましく感じる時と、あーあ、と肩を落とす時の割合が、日本を訪れる度ごと、年々逆転しつつあるような。
そんなことを思いつつ、でも、これが関西だったら違うのかなー、なんて考えたら、ついつい笑ってしまうんですけどね。
カスタマイズについてについてもそうですが、電車に乗る時に体験する諸々。
「黄色い線の内側にお下がりください」等のアナウンス。
駅の切符の自動販売機に貼ってある、「終電の時間を予めご確認ください」という札。
これらは、Sheenaさんのおっしゃるように、無知な我々を守ってくれようとするものなのか、
それとも、責任を負いたくないという気持ちの表れなのか。
ン十年と日本人をやってきている自分にさえ、明確な判断は下せません。
残る手としては、そういった前提が違うので、せめて言葉を使って問いかけて、互いの考えを確かめて、摺り合わせをはかること、なのですが。
そうした時に、「いやあ、まあ、色々ありまして」と言われるだけでは、八方塞もいいところ。
絵画を観に行って、思わぬ学びをいただいた一時でありました。
大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年
2012年4月25日~7月16日
国立新美術館