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あの日、あの時、繋いだ手 (7)

「不可能とは、自らの力で世界を切り拓くことを放棄した臆病者の言葉だ。
 不可能とは、現状に甘んじるための言い訳に過ぎない。
 不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。
 不可能とは、誰かに決めつけられることではない。
 不可能とは通過点だ。
 不可能とは可能性だ。
 不可能なんてありえない」
   ----- モハメド・アリ
       (アメリカ人、ボクサー、1942年1月17日生まれ)

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【雑事】

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頭の良い人って、どういう人だろう。
そんなことを、先日友達と話したりしたのです。

私が感心して憧れる人とは、何かができることを、ヘタなプライドの拠り所としていないとか、自然体であることとか。誰もが違うことが当たり前である感覚や、人を受け入れる度量の広さなど。
うまく言えないのですが、「一番大切なことを本能的に掴める人」に、とてもとても憧れます。

それは、学歴や職歴ではなく、家柄や育ちでもなく。
博識であったり、実生活の能力が高いことも、とても素晴らしいと尊敬するけれど。
それ以上に、等身大の幸せというものを知っていて、周囲への感謝が当たり前にあって。
人の気持ちを理解できるだけの健全な想像力と、その気持ちをすくい上げられる包容力。自分自身を笑い飛ばせる、大きな器。
見栄やプライドに囚われて、羨んだり自己嫌悪に陥るばかりの私には、 そんな枷を脱ぎ捨てた、もしくは、はなから持っていなかったかのような自然な立ち姿は、なりたい自分の型そのものです。




先日、TVで教わったことなのですが。
認知症やアルツハイマーの人に対して、その人がやりたいと思っていることを前向きにとらえて、それが叶えられるような形にもっていけた後、彼らの症状が緩和された、という話だったのですね。
理性で感情を抑えておける間というのは、実は人生において、それほど長くないのかもしれません。
底にある”気持ち”は、一生消えず、湧き上がってくるばかり。

一番素敵だなあ、と思うのは。
理性で”気持ち”をコントロールするのではなくて、その”気持ち”そのものが、相手が喜ぶことが嬉しいという”気持ち”であること、です。
子供っぽい例えですが、誰かがすごいことをしたとして、それに対して嫉妬しつつも、上手く隠して「おめでとう!」と言うのではなくて。
そのことが本当にすごい!と思えて、その人が喜ぶことが心から嬉しかったら、相手も自分も”気持ち”が一緒であったら、その嬉しい”気持ち”が倍になって。

「自分がしてほしいことを相手にする」ゴールデンルールより、「相手がしてほしいことを相手にする」プラチナルールの方が更に理想的、とは、以前にも書いたこと。
それを察して、押し付けでなく実行できる力が、私の考えるところの「頭の良さ」であるのです。

憧れて憧れて、どうしても自分にはできないことだから憧れて。
天性だからこそ憧れて。努力で成せることではないから憧れる。
だけど、そういう性質を持ってないので。悲しいけれど、そうなので。

いつもいつも、出てくるのは自分の”気持ち”だけ。
じゃあせめて、理性でコントロールしていく術を身につけなくちゃ、と思っていたのですが。

大事な存在ができて、大事だと思う人が少しずつ増えて、大事だと思う気持ちを素直に認められるようになった頃。
そういう相手だけでなく、人が喜ぶことが同時に自分の喜びになって、”気持ち”が倍になることが増えてきたのです。


ごくごく基本的なことですが、なかなか果たすのが難しいこと。
それが、「ありがとう」と「ごめんなさい」を惜しまないこと、だったりします。
いや違うな、「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うタイミングを逃さないこと、でありますね。

特に「ごめんなさい」は、相手が身内であればあるほど、意地っ張りな私にはとても難しく。
それは前に書いたように、私の育った家庭が、ほめるよりけなすことが当たり前だったので。
この2つの言葉は、家族以外の人になら大丈夫なのに、家族内に限っては、意地が先に立ち。

結果、私の今の家族に対して、同じことを繰り返し。
お嬢の見本にならないどころか、お嬢を傷つけることしばし、だったなあ、と返す返すも情けなく。
子供には「ごめんなさい」を強要しながら、自分から子供には素直に告げられない。常に親らしい親でいたかったから、なんて言い訳にもなりません。

ずっと憧れて、でもなれないと諦めていたその姿に、それでもほんの足先だけでも向けることができるようになったのは。
お嬢の思春期を通じて、ありのままの彼女だけでなく、自分自身をも少しずつ受け入れることができるようになってから。
悪いと思った時に、間違ったと思った時に、お嬢に謝って、お嬢の前で泣くことができるようになってから、だと思うのです。


このシリーズの初回に書いた、大人になった彼の、彼女の心のうちに住む、受けた傷を癒しきれないままに泣いている、その子供。
起こったことを消化するには、あまりに幼く、ただ”気持ち”の報われなさだけを味わって。
その子が欲しがっているのは、たった5文字の、ただの簡単な、その一言だったりするのかもしれないから。

ごめんなさい。あの時はわからなくて、ごめんなさい。
そういうことだったんだね、ちゃんと聞いてあげられなくて、ごめんなさい。

大きくなった後でも、間に合えば。
気づくのが遅くなってしまったけれど、今からでもやり直すことができるなら。

ありがとう。 ごめんなさい。
今までの意地っ張りの殻はまだ頭にくっついているものの、家族相手にも自然に口にすることができるようになってきて。
お嬢に向かって、大好きコールを連発しながら、そんな自分を嬉しく思うと同時に、そう変えてくれた家族や友人に、また心からの「ありがとう」を繰り返す。

悲しさや悔しさ、嫌悪感を持ってしまうのは、自分側の理解力の不足もあることで。
相手に対しては何もできないけれど、自分の器次第で消化できることもあるはずで。
同時に、相手の”気持ち”を掬うことも、自分次第で叶えられるなら。
幼い自分にはできなかったことでも、今の自分になら、求めてしかるべきだと思うのです。


自分では、それでも幾らかはできているように思っていたことが、実は全然足りないと知ったこと。
もっともっと、もっと奥底にまで、掘り下げていける余地があったこと。

ならば、今の自分に必要なのは、新しいことを始めて、自分を左右に広げていくのではなく。
今の立ち位置のまま、今手にあるものをもっと知って、もっと深く関わって、確実に身につけていくべきことであることを。

新しい年の始めに、抱負として思ったことでした。



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実行できるかどうかは別にして、なー。(舌出し)(台無し)

早くこのシリーズを終わらせないと、それこそ今年になってからの日記が書けません。全く、なんてテイタラク。
ということで、グダグダ戯言は次回にも続きます。
by senrufan | 2011-01-17 12:11


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