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世界に一つだけの教科書を (5)

「芸術はなぐさみの遊びではない。それは闘いであり、ものをかみつぶす歯車の機械だ」
   ----- ジャン=フランソワ・ミレー
        (フランス人、画家、1814年10月4日生まれ)

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【個人的事情】

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前回で終わり、の方がすっきりして良いのでは、と悩んだのですが。
定期的に、「今の自分が思うこと」を残していきたいとも思っているので、あくまで個人的につぶやきます。
なので、どうかさらりと流してくださいませ。つか、通り過ぎ・無視推奨です。(強調)



元々は家族の健康の為に、野菜料理のレパートリーを増やしたくて、色々と漁っていったら、辿り着いたのがマクロビオティックでした。
ゆっくりと始めて、家から動物性由来の食材がほぼ消えたのは、2005年の秋ぐらいだったかなあ。
それから数えれば、菜食メインになってから、すでに5年になるのですねえ……(しみじみ)




さて、マクロビオティックといいますと、良く言われるのが、「肉や魚は食べちゃだめなんだよね」ということですね。
そのたびに、「食べちゃだめというのはヴィーガンであって、マクロビはそうじゃないんだよ」と答えているのですが、なかなかわかりにくいようで。
ざっくりいいますと、動物性のものは、特に肉は身体への負担が大きいので、日常的には摂らない方が良いですよ、と言ってるんですね。
それがマクロビの陰陽理論から、肉は極陽性だから、という言い方になったりするので、引かれる向きもあるのですが。
魚以上に肉は消化が大変であり、その分体内酵素が消費され、他の部分への修復に回らなくなり、身体に余計な老廃物が蓄積されていく云々、ということは、菜食界に限らず、近年広まりつつある栄養学話、と言って良いと思います。

菜食と関係のないところで実験され、結果として菜食支持となり、反響を呼んだ研究があります。
83年~90年、コーネル大学教授のキャンベル氏がリーダーとなって実施された研究で、詳しい説明はWikiにお願いするとして、
中国の食生活を幅広く調査した結果、動物性たんぱく質が様々な疾病のリスクを高める、という結論に至り、2005年にアメリカで、「The China Study」というタイトルで出版され、喧々諤々の論議を巻き起こし、一大ベストセラーとなりました。

久司先生が、そのずっと前から「肉はやめた方が良い」と言われていたことが、マクガバン報告で証明されようとしたところ、業界圧力で緩和されてしまった、という悲しい過去。
それが、このChina Studyでまた明らかにされ、また業界圧力が色々と横槍を入れ、という経緯があったことからか、去年出版された日本語訳には、「葬られた第二のマクガバン報告」というタイトルがついてます。
三巻構成で、現在は上・中巻が発行済み。翻訳されているのは、ナチュラルハイジーンの日本での第一人者、松田麻美子さんであられることを補足しておきます。


5年という月日の間、途中でローフードやナチュラルハイジーン、甲田先生の生菜食に出会いました。
マクロビオティックでいけば、生野菜や果物は身体を冷やすものとして、あまり薦められないのですが、私には合っていたようで、生を取り入れるようになってから、身体が軽い、肌の調子が良いなど、また変化が見られております。
この夏は特にロー率が高かったせいか、今は顔を洗った後、化粧水をちょっとつけるぐらいで大丈夫。以前は、季節の変わり目には粉をふいていたほどの乾燥肌でしたから、これは嬉しい変化の一つです。

ただそれも、1年以上続けた結果、わかったことであり。
ダイエットの宣伝に良くありがちな2週間という期間だけだったら、即効性がないどころか身体が冷えると思って、あっさりやめていたかもしれません。

血液の血漿が入れ替わるのに10日。血液全体が入れ替わるのに3ヶ月。
身体の細胞全体が入れ替わるのには、7年という月日が必要です。
問題は、「合うか合わないかの結果が出るまで、続けるか否か」という点にもあると思います。

じゃあ、私はローフーディストか?と聞かれれば、決してそうではありません。ナチュハイ信奉者というわけでもないでしょう。
私自身の今の考えは、以前に書いた時から変わっていないので、ベジタリアンやヴィーガンでもなく、動物愛護主義とも違います。

強いてどれかの名前を選ばなければならないならば、やはりマクロビオティック、を取ります。その必要さえ、本当は感じないのですけれど。
それは、この世の手の届かない存在に対して畏敬の念を持っているけれど、それをキリストやアラーと呼ぶことはない。そんな宗教観と同様に。

では、なぜマクロビから離れることがないのか、という理由は、
自分の身体の声を聞くことを。他人の考えではなく、自分自身で考えて選ぶことを。
初めて教えてくれたのが、マクロビオティックであったから、なのでございます。


ずっと食に関心がありませんでした。料理もずっと苦手でした。あ、訂正、今でもです。
作るぐらいなら、食べない方がマシ。そう言い切ってはばかりませんでした。
それでも主婦として、一通りのことはやっておりましたが(当人比)、今と比べたら、それがどれだけ表層的であったか、しみじみわかります。
逆に言えば、菜食になってから、今まで体験したことのなかった家族や他人との溝を感じたり、過食や拒食を経験したりと、食に振り回される日々ばかり送り。
こんなことになるぐらいなら、昔の方が余程幸せだったんじゃないか。そんな考えが頭をよぎったことは、両手の指の数だけでは足りません。

それでもその過程で、今まで全く無知だった領域を知り。聞くこともなかった人達の大きさを知り。
一旦知ってしまったら、知らなかった頃には戻りたくはなくて。知らないままが幸せだった、とはどうしても思えなくて。
そう言い切れるほどの沢山の貴重な知識と思いを、確かに受け取りつつあるのです。


ルール通りにやることは危険、ほどほどに、ゆるゆるに。そう思いながら始めたマクロビオティックでしたが。
それでも、薦めないとされる食べ物には、どうしても拒否する気持ちが先立って。気にしないで楽しんでいるつもりが、実はただの臆病心であったこと。
随分と体重も減ってしまい、がりがりで骨ばって、自分への嫌悪が隠せないほどになりました。
ようやくそんな箍をはずし、また元の状態に戻れた時、周囲の友達何人もから、随分と心配していた旨を打ち明けられたものでした。

ゆるく、ゆるく、と口では言いながらも、結局はテキストに安易に従って、自分の身体がどういう状態であるのか、見極めることもできず。
誰かと一緒に外食に出かけても、ほんの少ししか食べずにほとんど残す。こんなヤツが一緒にいて、いくら「気にしないで!」なんて言ったところで、周囲が愉快なわけがないのであって。
あの頃から現在まで、変わらずに付き合ってくれている友人達には、本当に感謝という言葉では足りません。
そんな申し訳ない、情けない、しかし、自分には必要で大事な体験だったのです。


久司先生がおっしゃる通り、ベジやマクロビだからといって、えらいわけではありません。
教科書をふりかざして、人の食べているものに対して、遠慮なく批判を浴びせる人達がいて。
動物愛護からのベジタリアンであることを得意として、居丈高に肉を食べる人を見下して。そして、車のシートは革張りなんだよな。
こういう人達は、食生活でも宗教でも、とにかく大義名分があれば、同じ態度をとるのでしょうなあ……結局、自分の足で立ってないから、既成の寄りかかり所が必要なんでしょう。

私は、なんでも食べて、その食べ方がとても丁寧で、料理に対して尊重の気持ちを持っている人を知っています。
レストランで、いろんなメニューに好奇心いっぱいで、喜んで残さず食べる人を知っています。
仕入れた牛や豚は、内臓から尻尾まで、余すところなく料理することを自分に課しているシェフの話を聞いてます。

You are what you eat.
人が、その人の食べるものであるとしたら、それと同じぐらいに人を作るのは、「食べ物への気持ち」と「食べ方」である、と思ってます。
そして、その気持ちと食べ方が、その人的に潔ければ、初めてえらい、と感じます。
環境も人間関係も、「食べ物」です。それらのものを尊重して、人に押し付けることなく、自分の内への取り込み方を知っている人を、尊敬せずにはいられないのです。


どんなすばらしいテキストでも、自分について書いてある本はないのですよね。
忠告も知識も人の体験談も、どれも大切ですが、それはあくまで「止まった情報」であって、生きている私達に合うかどうかは、試してみないとわからないことで。
ましてや、毎日のように新しい健康情報がもたらされる現在、一々右往左往してたら、身体も心も持ちません。

例えばレシピ通りに作っても、美味しくない場合があるのは、材料も道具も食材も違って、そして何より食べる自分自身が、その人ではないからで。それを、レシピのせいにするのは間違いで。
それより、そんなアイディアと叩き台があることを喜んで、自分流にアレンジしていく過程を楽しめたら、どんなにか。

すばらしい健康法が数多くあって、貴重な栄養情報が溢れていて、しかもネット等で素人でも検索できる、そんな現在に居られることを、本当に幸運に思います。
だからこそ、それらに振り回されるだけでは、勿体無くも申し訳なく。

自分で調べて、自分で選んで、自分で試して決めること。
そうやって集めた「自分の法則」が、世界で一冊だけの、自分一人だけについて書かかれた教科書となるのだ、と思うのです。
by senrufan | 2010-10-04 15:11


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