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小さな足の、大きな一歩 (11)

Grandparents Day (U.S.A.)

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【雑事】

7. ほんの一歩の例として (2)

もう一つ、現地校で過ごして欲しいと思った理由。
いろんな人がいて、その人の数だけ、いろんな考え方があって、それが当たり前であることを学んでほしかったのです。
髪や肌の色が違うこと。違う言葉を話すこと。
それは、未熟者の私のように、差別や偏見はいけない、と理性で判断するのではなく。
それこそ幼い頃に身につける言葉のように、自然発生的に身体と心に染みてくれれば、という望みがあったのですね。




このエリアはこれも嬉しいことに、様々な人種が集まって、様々な文化を垣間見ることができる場所であり。前にも書いたように、お嬢の1年生の時のクラスは、生徒13人中9人がバイリンガルだったという。
また、日本では”障害”とまとめられてしまうアレコレを持つ子に対する、サポートが手厚いこと。程度にもよりますが、できる限りレギュラークラスに入れていこう、という試みも多いです。

自分と違う人、自分にないものを持つ人。
いろんな話を見聞きして、ああ、そうか、と思って心掛けるのではなくて。違うということが悪い、というアイディアそのものがないように。
それは、理想が過ぎる望みであることは、ちゃんとわかっていたのですけれど。

実際のところ、これはなかなか困難でした。とういか、それがどこでも実現可能だったら、今頃この世界から、戦争はなくなっているはずですな。
米国の歴史は移民の歴史でもあり、黒人差別を乗り越えた国であるので、もっと自由かと思いきや、そうはいかないのが現状です。
やたら訴訟や裁判が多いのも、そういったいろんな価値観や制度を持つ人々をまとめるには、論理に特化して進めるしかないからで。その中でサバイバルするには、口と要領に長けてないといけません。

「人種差別をなくそう」という運動は同時に、「自分とは違う人種がいることを常に忘れさせない」働きをも持つのであり。
それによって、A人種からB人種へ、という一方通行ではなく、双方向で成り立つ差別と、差別を体の良い言い訳として利用する術とを生み出している、と思うのは、些か皮肉な見方でしょうか。

そういう偏見が全くない先生の庇護下に、それぞれルーツや条件が異なる幼児が集められたなら。肌の色や親の国籍や文化の差としてではなく、その子の意志・親の価値観として、物事を捌けていけたなら。
そこまでやったところで、そういう考えは、どうしても生まれてくるのかもしれませんが。

お嬢に身につけてほしかったのは、そういうアイディアにとらわれない大らかさ、でありましたが。
多人種にもまれることは、彼女が日本人だから悪いと責める中国人からの言葉や、髪が黒いのがみっともないと笑う白人のからかいなども受け取る、ということであり。
宿題をやっていくことに対しては、アジア人だから、と言われることもあるのだ、と何回も思い知らされて。
結果、彼女の中に育まれたのが、自分は日本人であるという、相当に強い誇りに似たものであったことは、全く予想外のことでした。


数年の短期滞在ならともかく、永住の可能性大で海外に滞在している子供達について、ずっと指摘し続けられてきたのは、「アイデンティティ」という問題です。
その子自身が、自分はどこの国の人間だと考えるようになるのか。国際結婚されているご家庭では、更に悩みは大きいでしょう。

しかし、お嬢に関しては。
親が日本人で、日本生まれで、日本国籍で、外見もどこから見ても日本人。(殴) どうしたって日本人以外のアイデンティティはありえない。
しかし、彼女ほど長くなると、少なくともこれだけ滞在したアメリカという国を、第二の母国と思うようになったところで不思議はないのです。
それが、そんな程度じゃないぞこれ、と真剣に思わせられ始めたのが、彼女が小学校高学年になった頃からだったかなあ、と。


幾つかの要因が重なって、彼女の中に生まれた「母国」は、日本で育った我々や、周囲の子供達と比較してもかなりの強さで、彼女の内部に、今ではかなりの場所を占めるようになっています。

それは、ずっと「あと2年」と言い続けて、短期滞在の姿勢を崩さなかったこともあるでしょうし。
学校が現地校中心であった分、家では日本、と徹底していたこともあるかもしれませんが。
それ以上に、人種関連の衝突やいさかい、価値観の差。そういうことを経験するたびに、それを興味ととらえるのではなく、苦さとして味わって、その時の悔しさや意地が、自分は日本人なんだ、いつか日本へ帰るんだ……という頑なさに繋がっていったのではないか、と、母としては推測しております。そして切なく、悲しく感じているのです。

加えて、反省しきりで思うのは。
結局私は、自分が培ってきた価値観を彼女に教えてきたわけで。
それは、謙遜や勤勉さの美徳であったり、逃げないことの真っ当さであったりして、まとめてみれば、日本で尊重されるもの、であったのですが。

現地校でのいざこざが起こるたびに思い知らされたのが、「言った者勝ち」「やった者勝ち」の、強さと要領がモノを言う世界であって。私がそれに対峙するに当たっても、彼女を徹底的にかばう、といったような、こちらのお母さん達が良く見せる姿勢ではなくて。
もちろん、相手や先生に否があると思えば、やんわりと伝えることこそしたものの。
客観的でなくてはいけないという思いから、彼女がとった行動や言動を省みさせては、相手のことを批判するより、自身を磨くことを要求し続けてきたのです。

私という人間は、何か事が起こった時、周囲に解決の種を求めるのではなく、自分に引き寄せて考える傾向にあります。
それは、決して自分に厳しいというようなことではなくて、他人は私の力では変えられないので、自分で変えられる部分を変えてしまう方がてっとり早いから、というのが大きくて。
嘆いてばかりで進まないよりは、何かできることをやった方がいい。そんな短絡さに起因します。

お嬢に対して私がやってきた”躾”は、結局こんな私の価値観の押し付け以外の何物でもなかったのです。
日本で培った価値観を子供に求めるお母さん達を見て、同情まで感じていながら、自分が娘にやったことは、全く同じことであったのです。

そんなことじゃなくて、泣いてる彼女を、ただ抱きしめてやるだけで良かったのに。
悔しい気持ちを、ただわかってやるだけで良かったのに。
大らかであれ、と娘に望みながら、一番手本にならなくてはいけない私が、狭い心から逃れることなく、彼女に接していたのではないか。

お嬢の「母国」への強い気持ちには、もちろん彼女自身の性格の成すところもありますが。
同時にその背景には、こんな母を持ったせいもあるのか、と、心からすまなく思うのです。
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あと一回。あと一回。(言い聞かせ中)
by senrufan | 2009-09-13 09:36


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