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外に流すべきは悲しみと

Mother's Day (Mexico)
Mother's Day (U.S.A., Canada, Finland)


えーと、今日の日記は、
すんごおおおく長くて、暗くてくどくて、
ただだらだらとつぶやき続けてるだけなので、

できたら読まないでいただける方が良いかと思います。

だったら、なんでんなもん書くんだ。
と言われたなら、
心の整理のため、
と答えるしか。(そっと俯く)


ということで、よろしくお願いいたします。ああ、なんて便利な日本語。

* * * * *

【個人的事情】

GWといっても、こちらでは何のことはない日常、なわけですが。
計らずもこの時期に、3人の死を知ることになりました。




*-*-*-*-*-*-*-*-*

まずは、私の父方の祖母。
4月27日、永眠しました。享年101歳。大往生、と言えましょう。
予想していた通り、涙も出ず。ただ、終わったなあ、と思った出来事でした。

それは、年齢から覚悟していたことでありましたし、最後の方は認知症から、自分の子供のこともわからなくなっていた状態で。
私とは性格的に合わず、子供の頃から苦手だったこと。
私の両親との同居で、母はストレスから癌にかかったこと。

驚嘆するほどの丈夫さで、最後まで元気でいてくれたことは良かったのですが、その間、高齢化社会や介護事情について、どれほど考えさせられたことか。
薄情この上ないことは承知の上で、自分は絶対長生きしたくない、娘には絶対負担をかけたくない、と、何度も思わずにはいられませんでした。

すでに両親も70歳を越えておりますが、これでようやく、何も気にせず好きなことができるし、どこにでも出かけられるようになったので。
随分と長くかかってしまいましたが、今からでもどうか、そういう時間を大事に味わってほしい、と願っています。
*-*-*-*-*-*-*-*-*

次なる訃報が飛び込んできたのは、5月5日の火曜のこと。
お嬢が帰宅するなり、ハイスクールの上級生が、電車に轢かれて亡くなったことを告げました。
高校の3年生で、状況からして、どうやら自殺ではないか、と皆が話しているというのです。

その日の夕方以降、学校や学区オフィスから、数通のメールが届きました。
大変なショックであること、必要であれば子供と話し合い、様子に注意してほしいこと、そして子供達が苦しんでいるようなら、教師もカウンセラーも、いつでも喜んで相談にのること、等々。

事故の現場は、お嬢の通学路の途中にある踏み切りで、自主的に乗り越えて入ったらしい様子があるとのこと。
その日から2日ほど、そこには彼を悼む張り紙と、多くの花束が捧げられておりました。

お嬢や私は、個人的に接点がなかった彼ですが。新聞の記事などによると、小さい子に大変慕われ、動物が大好きな、心の優しい少年であったそうです。
自ら命を絶ったのであれば、そこまで彼が思いつめた理由は、私ごときが知ることはできませんが。
少なくともわかることができるのは、子供を先に失う親の苦悩と絶望感。そして、親しい友人を失うことのたまらない悲哀の念。
両者に関しては、十二分に想像の範囲内であり。胸が詰まって苦しくて。
本人の苦しみも相当なものだとは思うものの、置いて行かれた立場からすれば、それを知らなかった、もしくは何もできなかった、という自責の念を、どこにぶつければいいのかわからずに。


翌日の学校では、黒を身につけた子供が目立ちました。
Facebookなどで情報を遣り取りし、子供達が自主的に行った、追悼の意の表現でした。
*-*-*-*-*-*-*-*-*

そして7日に、我が家にかかってきた電話。
お嬢のミドルスクール時代の恩師が亡くなった、という知らせでした。

この日の2週間ほど前に、彼が突然入院したという知らせを受けて、卒業生までが大変に心配したのですが、数日後には無事退院されて、一旦安心していた矢先のことでした。
祖母の訃報にも涙しなかった私が、絶句して言葉を失い、電話の相手と共に涙を流したのです。

お嬢がミドルで、とある特別クラスに所属していたことは何度も書きましたが。
この先生あってこそのクラスである、と言い切れるほどの教師であった彼は、生徒にも保護者にも絶大なる信頼と尊敬を受けていた、正に名物先生でいらっしゃいました。

お嬢は7・8年とお世話になったのですが、Back to School Nightにて、初めて彼の話を聞いた時のことを覚えています。
「彼らはすばらしい、本当にすばらしい子供達です。あなた方のお子さんを私に託してくれて、心から感謝しています」
親の目を一人一人真っ直ぐに見つめながらの言葉は、こちらの胸を温かくしてくれるものばかりでした。


周囲に迷惑をかけて疎まれる子でも、ありのままに受け入れようとする彼に対して、甘すぎる・なめられてるという評価を下した子供達もいましたが。月日が経つにつれて、お嬢たち生徒は、それがどれほど勇気のある、心の広さの表れかということを知り、卒業時には、彼は今まで出会った中で、最高の先生の一人だ、と断言する子がほとんどで。
ハイスクールに進んでからも、その時の仲間うちでいまだに連絡を取り合い、集まっているのは、姿がなくとも彼という存在の求心力も、一役買っていることは間違いのない事実。

訃報を聞いて、ハイスクール構内で集まった仲間達。
悲しみに沈みながら、皆が思い返した彼の姿は、
「どれだけ時間が経っても、いつでもそこにいてくれて、両手を広げて笑顔で受けとめてくれる」
そんな大事な存在だった、と思いが一致したそうです。

彼の奥様からは、特に何もしないでくれ、との言葉がきたそうですが。
旧クラスの保護者グループのリーダーが、彼の奥様と連絡を取り合い、旧クラスの面々で自主的に集まる企画を立てたことを伝え、しぶる奥様に次のように言ったそうです。
「どうか私達に、彼を悼む時間と場所をください。大変に慕っていた彼を突然に失った子供達は、悲しみの行き場を探し、それを昇華させることが必要なのです」


尊敬する養老先生は、死には一人称・二人称・三人称の三種類ある、とおっしゃっています。
一人称、これは自分の死。二人称の死は、身内や親しい人間の死。三人称は、他人の死、となるわけですね。

この中で問題なのは、二人称の死であるのは言うまでもなく。
繋がりが密であればあるほど、その死が与える影響力は強くなり、悲しみをどう消化するかは、その分だけ困難になり。
ましてや、ティーンという心揺れ動く時期において、”死”とどう向き合うか、というのは、子供次第で大きな傷にもなりかねず。

場所と時間と、助けの手。
大人であっても必要な。それが子供なら、尚のこと。


彼に2年という間、教わることができたお嬢達が、どれほど幸運だったことか。
それをしみじみと噛み締めながら、改めて心からの感謝を捧げつつ、冥福を祈りたいと思います。
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ところで、今回の曾祖母の死が、お嬢にとっては初めて出会う、身近な人間の”死”でありました。
幸か不幸か、あまりにも接触がなく過ごしてきたため、反応もあっさりしたものでありました。

上級生の自殺についても、衝撃はあったものの、それこそ三人称の死であった為、私とある程度話して、しばらくしんみりして終わったわけですが。
さすがに先生が亡くなったことを知った日には、帰宅してから泣くのではないか、と家で案じて待っていたのであります。

ところが、予想に反して、彼女の涙はなく。
それどころか、週末に企画されていた仲間うちの追悼ミーティングについても、日本語学校と時間が重なっていた為に、「行かない」と。
「死んだ人の為に、今生きている人が日常を妨げられる必要はないと思う」
人前で涙を見せることは恥だ、と言い切る彼女が、行かない理由としてあげた言葉です。


私自身も、昔はもっと涙を見せられない人間だったなあ、と思い出します。
本来の涙もろさを、人前でもてらいなく出せるようになったのは、やはり大人になってから、でした。

自分が意地でも涙を見せない分、良く泣く友達を見ると、不思議で呆れて仕方がないお嬢。
そのテの言葉を聞くたび、子供のうちに素直に泣けることはとても良いことなのだ、と語ってみてはいるのですが。

はなから涙を引き出させるような感情を覚えないのであればともかく、実際には泣きたくてたまらないのに、それを意地でとどめてしまうような、頑なな心でいるのだとしたら。
その歪みと無理は、必ずどこかに澱を溜め、時が経つうちに、心を重くしていくもので。
人前で見せたくないならば、せめて安心できる場所では素直に泣いて、感情を吐露しておくことが必要だと思うのです。

成長してからようやく理解できた、「素直さ」と「しなやかさ」を備える心の健全さ。
依怙地であり続けた年齢では、密かに憧れながらも、どうしても手にいれられなかったものですが。

それは、今の自分が「新たに手に入れる」ものではなく、「あるものを手放す」ことで、自然とその姿になれるものなのだ、と。
足し算ではなく、引き算なのだ、ということも、それだけの年数と経験を重ねることで、ようやく染み入るようにわかることなので。

生まれつきの性格は絶対に変えられない、と言い切るお嬢に、今この場で180度変わることを期待することは、決してありませんが。
変えられないと思っているうちは、変えられない。変えたいと思って、変えようと踏み出して努力することで、変わるのだ。
それを事あるごとに言い続けることも、親としての仕事の一つだと思うので。

悲しいことがあった時には、できたら彼女が安心して泣ける場所の一つになりたい、と願いながら。
残念なことに、そういう場所にはなかなかなれないのが、また親というものである、ということも知っています。
なので、できることは、彼女がそういう場所を持つことができ、そういう方向に変わっていける道をたどっていけるように、そばで祈ることが精一杯なのです。


先生の訃報に、涙こそ見せなかったお嬢ですが、翌日には黒い服で登校して行きました。
追悼式こそ行けませんでしたが、キャンパスで仲間達と集まって語り合った先生の思い出の数々が、彼女の心に浸透したことを、言葉の端々からうかがえて。
彼女の為に、皆の為に、ひっそりと嬉しく思ったことでした。
by senrufan | 2009-05-10 15:02


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